『日本のいちばん長い日』によせて4

 

 ミャンマーでクーデターが起きた。

 アウンサンスーチー氏はじめNLD(スーチー氏率いる「国民民主同盟」)の要人、活動家が拘束され、軍部が全権を掌握したもよう。昨年11月の総選挙でNLDが圧勝したが、軍部は選挙に不正があったと主張していた。

f:id:takase22:20210201183731j:plain

左が今回のクーデターで全権を掌握したミン・アウン・フライン司令官

 ミャンマーでは民族融和はまだ達成されていないものの、言論・表現の自由をはじめとする諸自由は保障されるようになり、民主化の流れはもうひっくり返らないと思っていたが・・・。民主主義の脆弱さを突きつけられた。
・・・・・・・・・
 

 ワクチンの話題がメディアで盛んに取り上げられているが、日本は他国に2ヵ月以上出遅れているうえ、今後の接種スケジュールも定かではない。政府と地方自治体の間で、また政府の部署間でも情報が共有されていないお寒い状況だ。

 他の国なら政治問題化して内閣がつぶれてもおかしくないのだが、日本では国会でもメディアでもワクチンの後れを厳しく追及するようすがない。これは国民レベルでのワクチン忌避感情がベースにあるからだろう。

 JNNの1月9‐10日の調査では、「あなたはワクチンを接種したいですか?接種したくないですか?」の質問に対する答えは以下のようだったという。
接種したい  48% (↓-4pt )
接種したくない 41% (↑+4pt )
答えない・わからない 11%(→±0pt)
 (カッコ内は12月5日,6日調査との比較)
https://news.tbs.co.jp/newsi_sp/yoron/backnumber/20210109/q2-6.html

 なんと4割が「接種したくない」というのだ。
 ある意味「生真面目」な日本人がここまでワクチンへの拒否反応を示すのは、子宮頸がんワクチンのエビデンスなき副反応をめぐる騒動で、厚労省が腰砕けになった影響だろう。ちなみに日本の接種率は0.3%と異様な低さにとどまっている。

takase.hatenablog.jp


 子宮頸がんワクチンの有効性については国際的にも評価は確立している。
《接種率が低い子宮頸(けい)がんを防ぐワクチンの有効性を示す研究結果が相次いでいる。スウェーデンカロリンスカ研究所はリスクが最大9割減少すると発表。大阪大学は日本の接種率の低下で4千人以上の死者が増加すると推計した厚生労働省は副反応への懸念から積極的な接種呼びかけを中止してきたが、転機を迎えている。》
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO66183870T11C20A1TCC000/

 子宮頸がんワクチンの騒動では、ワクチンの危険を根拠なく煽ったテレビはじめマスコミの責任は大きい。コロナワクチンでは積極的な接種を広報することに徹してほしい。
・・・・・・・・・

 1945年8月14日から15日にかけて、皇居で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件(宮城事件)のつづき。

 8月14日午後3時すぎ、丸の内第一生命館(第一生命ビル)で二つの動きが同時進行していた。
 6階には東部軍管区司令部があり、田中静壱司令官(大将)を徹底抗戦派の中心人物、畑中健二陸軍少佐が訪ねた。東部軍管区司令部は、東京を含む関東全域と山梨、長野、新潟の軍政を束ねるところで、畑中少佐は、田中司令官にポツダム宣言受諾を拒否し徹底抗戦すべしと「決起」を促そうとやってきたのだった。終戦決定の報を知っており、同時に若い将校に暴挙を企てるものがあるとの知らせも耳に達していた田中司令官は、畑中少佐を大声で叱りつけた。畑中少佐の「オルグ」は失敗に終わった。

 同じビルの地階では、日本放送協会(NHK)の二人の技師が汗だくで作業していた。ここにはNHKの放送会館が爆撃され、スタジオが破壊された場合に備えたスタジオ「秘密室」が設けられていた。「玉音」の録音が宮内省で行われることになり、録音後の音声チェックのため、当時日本に一台しかなかった二連再生機を取りはずして第一生命館から宮城(皇居)まで運ぼうとしていたのだった。

 この第一生命館は戦争に因縁のある建物で、のちに占領軍に接収され、1952年7月に返還されるまでGHQが置かれた。今も6階にマッカーサー記念室がある。

f:id:takase22:20210201184140j:plain

GHQが置かれた第一生命ビル

 15日正午の「玉音」放送で終戦に決着がつくまでには、間一髪であやうく事態が重大化するのを防いだエピソードがいくつもあった。

 8月13日、日本から国体問題での問い合わせに対する連合国からの回答が届けられた日の午後、回答にあったsubject toで閣議で紛糾している最中のこと。徹底抗戦派の青年将校陸相に無断で「大本営午後4時発表。皇軍は新たに勅命を排し、米英ソ支4カ国軍に対し、作戦を開始せり」という報勅命令を新聞社と放送局(NHK)に配布したのだ。朝日新聞が確認のため問い合わせてこれがニセの発表であることが発覚し、取り消されたのは放送数分前のことだったという。連合国側は日本の出方を待っているときだったから、これが放送されていれば、どうなっていたかわからない。

 一部の青年将校たちは、彼らの信ずる国体護持がなされなければ、一億玉砕すべしと主張していた。そして畑中少佐らとは別に、複数のグループがポツダム宣言受諾拒否に向けて行動を起こしていた。

 夜9時、ラジオの一日最後の「報道」の時間(当時はニュースのことを「報道」といった)に突然、明日15日の正午に重大放送があるから国民はみな謹聴すべしとの予告放送が流れた。聞く者はいろいろの連想をはせ、徹底抗戦派はその放送を阻止しようと動くことになる。

 深夜11時55分、天皇終戦詔書朗読の録音のために御文庫を出ようとしたとき、突然、空襲の警戒警報のサイレンが鳴って、天皇が一時足止めされたが、空襲はなかった。

 『日本のいちばん長い日』には、「歴史の中にさまざまな想像が許されるならば、たとえば詔書の字句の審議がもっと長びいていたら、井田中佐がもっと早くクーデターに参加することを承知していたら、明らかに敵機が東京攻撃を目標としていたら等々、その結果はこれからどう進行したかわからない。一分一秒の狂いが大きな相違を生んだ。いろいろなことが微妙にからみ合い、まるで“タイム”を競っているかのように、一つの場所に集中殺到していた。」と書かれている。(P114)

 日付が変わる頃、放送協会の人員と機器が待ち受ける内廷庁舎の録音室(御政務室)で天皇による終戦詔書の読み上げが録音された。
 天皇は一度読み終わると、今のは声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むと、今の業界用語でいう「テイク2」を要求した。録音盤が2枚つくられた。当時はまだテープレコーダーはなく、音盤(レコード)に録音した。
 録音中、技術スタッフを含む15名近い立ち合い人は緊張し、目頭を熱くして立っていた。天皇もまた眼に涙を浮かべたという。

 正午の放送まで、録音盤をどこに保管するかが問題になった。放送局側は、音盤を持ち帰ることは畏れ多いし、陸軍の一部に不穏な動きもあるとの噂があるので宮内省に保管してほしいと要望。宮内省が2組の録音盤を受け取ったが、どこに置いたらよいか分からず、ちょうどそこにいた徳川侍従に預けることになった。徳川侍従は、皇后官事務官室の軽金庫に入れ、書類をうずたかくその前に積んで一目から隠した。もし、放送局か宮内省が預かったら、叛乱軍の手に入ってしまっただろうという。

 午前1時すぎ、畑中少佐ら数名が、宮城警備を担当する近衛第一師団の森赳(たけし)師団長に面会し、決起を要求したが拒否された。森はじめ軍の高級幹部は天皇が決めたことにはどんなことでも従うという方針だった。激高した畑中少佐は森師団長を銃撃し殺害した。

 叛乱軍はニセの命令を出すなどして兵を動かし、宮城(皇居)の占拠に成功。午前3時すぎには宮内省に侵入し、録音盤の探索がはじまった。兵隊は5~6人がひとかたまりとなって、一つ一つ部屋をしらみつぶしに、開かない戸を蹴破って調べていった。
 
 夜が明け、天皇の身柄確保にいたる前に、反乱軍の企ては失敗におわった。午前11時すぎ、畑中少佐と椎崎中佐は宮城前二重橋と坂下門の中間芝生で自決。正午に玉音放送が流れることになる。
 なお、阿南陸相が15日未明、「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を遺し、割腹自決を遂げている。

 朝7時21分、ラジオで再び“予告”が流れた。前夜9時の予告と同じだが、9時の放送では“重大放送”となっていたのが、このときには“天皇みずからの放送”と言い換えられている。
「謹(つつし)んでお伝えいたします。
 畏(かしこ)きあたりにおかせられましては、このたび詔書渙発(かんぱつ)あらせられます。・・・畏くも天皇陛下におかせられましては、本日正午、おんみずからご放送あそばされます。
 まことに畏れ多い極みでございます。国民は一人残らず謹んで玉音を排しますように。
 国民は一人残らず謹んで玉音を排しますように。
 
 なお、昼間送電のない地方にも、正午の放送の時間には、特別に送電いたします。また官公署、事務所、工場、停車場、郵便局におきましては、手もち受信機を出来るだけ活用して、国民もれなく厳粛なる態度で、かしこきお言葉を拝し得ますようご手配願います。ありがたき放送は正午でございます。
 ありがたき放送は正午でございます。」

 言葉遣いに当時の雰囲気が伝わってくる。

 録音盤2組は念には念を入れて、別々のルートで東部軍、憲兵隊に守られた放送局に届けられ、第8スタジオに入った。
 そのとき、護衛兵である一人の憲兵中尉が、軍刀の柄に手をかけ、「終戦の放送をさせてたまるか。奴らを全部叩っ斬ってやる」と叫んでスタジオに乱入しようとした。取り押さえられて事なきを得たが、放送直前のハプニングだった。

 正午の時報、「ただいまより重大なる放送があります。全国の聴取者のみなさまご起立願います」
 「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏(かしこ)くもおんみずから大詔を宣(のたま)らせ給(たも)うことになりました。これより謹みて玉音をお送り申します」のアナウンスにつづいて「君が代」のレコードがかけられた。

 続いて、天皇の声が流れる。
 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク・・

 放送が日本の命運を決する役割を果たした日だった。

 近代国家では、クーデター部隊は必ず放送局を占拠して正統性を訴える。
 いまや放送はSNSに取って代わられた感もあるが、メディアと権力をめぐる物語はこれからも続いていくだろう。

 徹底抗戦を唱えて終戦に反対する少壮将校がNHKに乗り込んでピストルを突きつけた報道部の責任者、柳澤恭雄氏
 柳澤氏は、NHKが「報道部」という名の部署がありながらも、自主取材をしていなかったこと、大本営発表をそのまま垂れ流したことを反省し、終戦翌年の1946年、はじめて「記者」職を採用した。NHKの報道部門を一から作り上げた人である。

takase.hatenablog.jp

 その後、レッドパージで柳澤氏はNHKを追われ、「日本電波ニュース社」を創設。私はそこにお世話になり、報道部長をつとめた。
 こうみてくると、私たち「ジン・ネット」にもNHKの報道のDNAが流れていたのかもしれないと思えてくる。