20日は大寒。一番寒い季節だが、少しづつ日が長くなっていく。「三寒四温」、寒い日が三日続いたあと暖かい日が四日続くといった繰り返しで春に向かっていく。
初候は「款冬華」(ふきのはな、さく)。一昨日、ほぼ1ヵ月ぶりに母に会いにいったら、ベランダの植木鉢から生えてきたフキノトウをくれた。ほんの少しなのでフキ味噌にしてご飯にのせて食べた。気分は春である。
25日から次候「水沢腹堅」(さわみず、こおりつめる)。
30日から末候「鶏始乳」(にわとり、はじめてとやにつく)。ニワトリが卵を産み始めるという意味だという。
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バイデン大統領が第46代米国大統領に就任した。
「団結」を訴えるが、米国の分断は深刻で、多難な船出になりそうだ。
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連日の電力の卸値が最高値を更新し、去年5月の10倍にもなっている。
案の定、多くの新電力が経営危機に陥り、悲鳴が上がっている。
「事業継続危うし、新電力から「電力市場の正常化」を求める悲痛の声」
政府の対策が望まれる。
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12日、昭和史の研究で知られ、戦争などをテーマに数多くのノンフィクション作品を発表してきた、作家の半藤一利氏が亡くなった。90歳だった。
あるメディアの訃報に、もともと保守的な人間で、かつては「反動」(=半藤)と言われたのに、近年はまるで左翼扱いされると、本人が時代の右傾化を嘆いていたとのエピソードがあった。戦争を深く反省し、教訓を学ぶことを力説した人だった。
半藤氏と親交のあった東京新聞の記者が追悼記事でこう書いている。
《「大事なことはすべて昭和史に書いてある」と語っていた半藤さんは、そこから学ぶべき5つの教訓を挙げている。
①国民的熱狂をつくってはいけない。そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である。
②最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ。
③日本型タコツボにおけるエリート小集団主義(例・旧日本陸軍参謀本部作戦課)の弊害を常に心せよ。
④国際的常識の欠如に絶えず気を配るべし。
⑤すぐに成果を求める短兵急な発想をやめよ。ロングレンジのものの見方を心がけよ。
コロナ禍に苦しむ現在の社会でも、心にとどめたい教訓である。》(東京新聞)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/79716
1945年8月15日の玉音放送までを、軍人など当事者の聞き取りでまとめた、半藤氏の代表作の一つ『日本のいちばん長い日』がうちにあったはずだと思い探したが、見当たらない。整理整頓していないとこういうとき困る。
図書館の蔵書は訃報直後で「貸出中」になっているが、一冊だけ遠くの分室にあった。1965年出版の古い本で、大宅壮一編とある。
半藤氏を中心に「文藝春秋」の編集者らがまとめたが、無名なので大宅氏の名前を借りて出したのだという。「あとがき」に「本文は半藤一利がこれをまとめました」と記してある。作品はベストセラーとなり、映画化もされ、95年には半藤一利名義で追加取材を含めた決定版を出した。
なぜこの本を読みたくなったかというと、あの戦争を終わらせるのに放送、つまり当時のNHKが非常に重要な役割を果たし、私の知っている人が関係者として登場するからだ。その記述を確認したかった。「放送」が日本の命運にもっとも大きく関わったのが1945年8月15日だったと思う。
政府がポツダム宣言の受諾を決め、終戦の詔勅を天皇自らが読み、ラジオで放送することになった。
ところが徹底抗戦を叫ぶ一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が、クーデターを企てた。8月14日の深夜、近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠したが、結局日本降伏阻止に失敗した。
この過程で、反乱軍が終戦の放送を阻止すべく、「玉音」が録音された音盤(レコード)を奪おうと画策しNHKに押しかけた。
《(8月15日)4時半、ほぼすっかり夜も明放たれたころ、放送会館は叛乱軍近衛第一連隊の一個中隊の将兵によって包囲されていた。正面と内玄関の出入口をかため、外部との連絡を絶ち、宿直していた職員(生田武夫常務理事をはじめ約六十名)を第一スタジオに軟禁した。(略)
午前五時からの放送開始のラインテスト(放送中継線のテストと確認)のために階下の第十三スタジオの副調整室に入った保木技術員は、そこに一人の将校と二人の兵隊を発見して愕然とした。そこは外部の人間の容易に入れるところではなかった。将校はいった。
「これから自分たちが放送するのだから、すぐに放送の準備をせよ」
警戒警報の東部軍情報がスピーカーから流れていた。保木技術員は「防空情報が出ているときは、放送できないことになっているのです」と突っぱねた。将校は割れるような大声をはりあげた。
「何をいうかッ!」
保木技術員は震え上がった。
放送局のいたるところで同じような情景が展開されていた。報道部室には、国内局報道部副部長柳沢恭雄にピストルを突きつけて、放送を要求する将校もあった。威嚇しているわりには元気なく、むしろ哀願するような口調だった。・・》(P180)
ここに登場する「柳沢恭雄(やなぎさわ・やすお)」とは、私がお世話になった日本電波ニュース社の創立者で、私が入社したときの会長だった。
NHKに向かったのは、叛乱軍の首謀者の一人、畑中健二少佐だった。
《宮城内の騒ぎが鎮まると同じころに、放送会館での畑中少佐だちの最後のあがきもようやく終わりに近づきつつあった。少佐たちは拳銃を納め、強迫というよりも哀願によって、自分たちの気持ちを全国民に訴えさせてほしいとなんども繰返した。柳沢副部長、放送員和田信賢らは、同じ理由をこれも繰返すことによってこれをはねつけていた。「警報がでている間は、どんな放送でもできないのです。東部軍の諒解がいるのです」
そういいながらも、放送局側は万が一のときに備えて万全の手を打っていた。技術局現業部主調整係長西島実は、放送会館から放送所への連絡線を断っていた。かりに畑中少佐が放送を強行してもそれは徒労でしかなたのである。》(P194)
柳沢さんたちNHKの職員は、叛乱軍に毅然と応対しながら、玉音放送の実現に努力したのだった。
あの天皇の肉声の放送が叛乱軍に阻止されていたら、敗戦時の混乱はもっと違ったものになっていただろう。
(つづく)