中村哲医師と大和魂

 空がどんより曇っていたが、気分転換に自転車で東村山市八国山緑地に出かけた。

 ここは「トトロの森」で知られている広大な森だが、隣に北山公園菖蒲苑がある。ちょうど「菖蒲まつり」(18日まで)でにぎわっていた。

10万本が満開だ(筆者撮影)

色や形のバリエーションが豊かなのに驚く(筆者撮影)

東村山菖蒲まつりは6月3日から18日まで。(筆者撮影)

高齢者が若やいだ声で花を愛でていた(筆者撮影)

 木製の広い通路がめぐらされていて、車いすの人も、色とりどりの花たちの競演を楽しんでいた。ここには600種10万本の花菖蒲、あやめ、かきつばたが咲いているという。私の故郷の山形県長井市のあやめ園には100万本があり、この菖蒲苑にも株が提供されている。長井もそろそろあやめまつりの時期になる。。

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 中村哲医師は、よく「自分は古い日本人ですから」と高倉健のようなことを言っていたそうだ。中村さんの書いた文章に、その「古い日本人」ぶりがうかがえる。

 中村さんは、パキスタンでのらい患者の治療から、アフガニスタンの農村医療計画へと突き進むことになるが、そのとき他のNGOの動きにはかまわずに孤高の道を歩むことを決意した。その道はけわしく、育て上げた診療員の一人は殉職までしている。中村医師を真摯に信じてついてくる部下たちに「何を以て報いたらよかろう」と自問したという。

 家族が居るからには軽々しく「一命を捧げる」などという決心はできない。日本側の問題でこの事業が分解する時は、せめて腕の一本くらいは切り落として彼らに捧げ、詫びを乞おう、と思った。(『ダラエヌールへの道)P56)

 失敗して撤退するときは、責任をとって、指を詰めるどころか、腕を切り落として詫びを入れるというのだ。近くでこの発言を聞いた人は、中村さんは本気だったという。義侠心というのだろうか、ほとんど任侠の世界。

 中村さんがペシャワールに医療支援に向かった理由を訪ねられて、浪花節的ですが、大和魂がだまってられん、ということでしょうね」と答えたのは知られた話だ。

takase.hatenablog.jp

 「大和魂」について中村さんは何度も言及し、病院や車には日の丸を掲げていた。

 「不敬事件」で公職追放になった直後の内村(鑑三)は、同時代に「足尾鉱毒事件」の犠牲者救済に一生を費やした田中正造と同様、時の不条理に挑戦して止まなかった。日本人の感性がまだはつらつと生きていた時代である。一世紀を経て、しかもペシャワールという異郷の人々にさえ、鮮やかな共感を呼ぶ。戦時中は誤用されたが、これが真の「大和魂」というものであろう。PMS病院にひるがえる日章旗は、法律で定めなくとも私たちが自発的に掲げたものである。(辺境で診る 辺境から見る P189)

 中村さんは15歳で進んで洗礼を受けキリスト教徒になるが、幼少期は論語の一部を素読で暗誦したという。その中村さんにとって、義理人情をふくむ「古いもの」を否定することは日本人が精神性を喪失することだと思えた。

 私はキリスト教信徒だが、分析的な最近の聖書注解書よりは、論語的教養を背景とする山室軍平内村鑑三あたりの方がピンと来る。庶民の浪花節などもそうで、義理人情物語の背景には明らかに「仁」が核にあり、忠孝道徳の理想を謡いあげるものであった。(略)極端な戦後教育の転換は、全て古いものを封建的という烙印を押して一掃し、日本人から精神性を奪い取った。温故知新というが、日本は古い道徳に代わる何ものをも準備せず、やたら古い権威の分析をしたり、仮面をはぐのみであった。そのつけは今来ている。日本全国の宗教法人が二万団体、中には稚拙な方法で人を罠に落とすようなものも少なくない。人間の非論理性は本源的なものである。しかし、それは長い間に培われた伝統を破壊しては新たな迷信を捏造するだけだ。私は、決して過去を賛美しないが、それに倍する新たな偽りにも与したくない。(辺境で診る辺境から見る P151)

石風社2003年

 オウムや統一協会はじめいかがわしい新興宗教の跋扈もまた、日本人の精神性の喪失によると中村さんはみていたようだ。

 中村さんが「サムライ」=真の日本人として称えた人に、「風の学校」からアフガニスタンでの井戸掘りのために派遣された中屋氏がいる。「四カ月間という短期ではあったが、ずぶの素人である我々の中にあって、ひとり経験豊かな専門家として、計り知れぬ貢献をしてきた」人である。その中尾氏が、「もっと困った所」であるアフリカ・西セネガルに行くとして中村さんの元を去ることになった。

 まったく侍である。白黒をきちんとつけた上で、言ったことは必ず黙って実行した。愚痴や言い訳が皆無であった。古風な日本の男として、私も何かと頼りにしてきた。消えつつある最後の日本人のひとりである。去り際も風のごとく爽やかで、ただただ「立派」という以外に言葉がない。(医者井戸を掘るP126-127)

 中村さんは、明治の日本人が好きだった。そして「最後の日本人」たちが消えたかのような、索漠とした現代の日本に厳しい目を向けるのだった。

 国を愛するがゆえの日本社会への批判は、火を吐くように激しいものだった。

(つづく)