「中村哲の挑戦」でロングインタビューを観る4

 いま参議院で審議されている入管法改正案中村哲さんが生きていたら、これをどう考えただろうか。

 なぜペシャワールというパキスタンの奥地にまで医療支援で行くのかと問われた中村さんは「やむにやまれぬ大和魂ですたい」と答えたそうだ。その中村さんなら、入管法改正案は「日本人の恥だ」と言ったのではないだろうか。

 「最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、馬鹿で、悪辣な事をしている時に、それを言ってやることだ」The greatest patriotism is to tell your country when it is behaving dishonorably, foolishly, viciously(ジュリアン・バーンズ)という箴言があるが、真の愛国者であり続けた中村哲さんなら、すぐに反対の声を挙げ、厳しく批判したのではないか。

 

 中村哲ロングインタビュー続き。

Q14:閉塞感の中で生きる日本人へ先生はどんなアドバイスをするでしょうか?

 私は説教師ではないですが、まず言えるのは、何をすべきかというよりも、何をしたらいけないか、ということを考えた方が良いと思う。自分の生活を見て、考えに考えて、グローバリゼーションにしても、私も含めてみんながそれに巻き込まれているわけで、これから逃れることはできない。テロリストといえども、それに反発する形でしか生きていけない。ということは、私たちが今すべきことは、すべきでないこと。それはどういうことかというと、時代の流れに惑わされない。それから、何か改革したり改善したりすると、その先に幸せな世界が待っているというような思い込みをまず捨てることだろう。

 難しい質問だが、さらに言うならば、身近にあってできることといえば、案外たくさんあるんですね。例えば、友だちがいじめられているのをかばってやるだとか、病気で誰かお母さんだとかが倒れていたら、代わりにご飯を作ってあげるとか、何でもないことのようだが、そういう小さな一つひとつのことが、人間の真心というか、それをじっと守る。そのことが大事なんだと思う。

インタビュー動画より

Q15:先生の事業はこの先どのような展開になるでしょうか?

 これから先どうしたらいいかは、私も実はよく分からない。ただ、この干ばつ問題はかなり大きいので、案外長い長い仕事になるのではないかという気がしている。

 

Q16:誰かを助けたいと思う時に、海外に行かずとも身近にできることがあると考えるべきでしょうか?

 そうです。べつに日本を飛び出して自分が変わるかというと、必ずしもどうではない。そういうことではなくて、自分の置かれたところ、みんな自由だのデモクラシーだの言ってるが、案外不自由だ。みんないろんなものに縛られて生きている。縛られて生きていく中でも、これだけは人間、最低限のルールとして持っておかなくてはいけないこと。あるいは心構えとして、持っておかなくてはいけない真心。これをしっかりと離さない。そのことが一番大事なのではと思う。

 

Q17:先生は真の文明は人の心の中に築かれるものだと言われましたが、それはどのようなことなのでしょうか?

 「文明」と我々は一口に言うが、文明というのは、やはり人類として、道義も含めて前向きになるということで、あるいは洗練されると意味であって、決して単に生産力が豊かになるとか、そういうことだけはない。

 経済、不況さえ克服すれば人間は幸せになるとはちっとも思わない。それはバブル期の日本を見てもそう思うし、逆にひもじい思いをしているアフガニスタンに来てもそう思う。いわゆる惨めな中にも人間らしい楽しい温かいことはたくさんあるし、モノに取り囲まれていろんな希望が自由自在にできる中でも、自殺する人は絶えない。ということを比べてみると、やはり文明とは単にモノがあって豊富になるというだけではないものがある。

 しかし、これからどうしたらいいかということについては、もう2000年も前にいろんな人がしゃべってるわけで、宗教改革などを見ても、宗教とは誤解を生みやすいが、宗教改革者の目的はけっして新しいものを作り出すことではなくて、常に元に戻る運動だった。宗教改革がよかったとは私はちっとも思わないが、私たちが文明に戻るというのは、昔から人々が述べてきた、その「道」に我々は常に帰っていく、そのことではないかと思う。

(インタビュー終わり)

 

 前回触れたように、中村哲さんは昆虫(とくに蝶)採集に夢中になって小さいころから山歩きをしていた。

昆虫採集に夢中だった少年時代の中村哲さん(「天、共に在り」37)


 1978年に福岡の山岳会が、パキスタンアフガニスタン国境のティリチ・ミール峰(7703m)遠征隊を出したとき、蝶と山が好きな中村哲さんは登山隊付き医師として参加した。これがアフガニスタンパキスタンとの最初の「ご縁」だった。。

「もともとペシャワールに行くハメになったのが蝶や山で、遊びで行ってのっぴきならぬ事態に次々と遭遇し、足が抜けなくなったまでのことである。『エーイ、こうなったら行けるところまで行け。対峙する問題から目を背けて今更現地を見捨てて逃げれるものか』と述べた方が事実に近い。」

「なにものかに引きずられながら、自分でも予想だにしなかった遠くまで、旅してきたような気がした。さながら曼荼羅のように、次々と新たな問いと困難に遭遇し、振り返れば日本から遠い地点に立っていた。(略)全ては縁(えにし)の縒り合わさる摂理である。人が逆らうことができぬものなのだ。」(『ダラエ・ヌールへの道』より)

 中村さんは、この「ご縁」という捉え方を日本人本来の美点だという

takase.hatenablog.jp

 

竹中工務店A4の展示より

 中村哲さんにとって、「ご縁」は単なる偶然ではなく、自分の意識や意志を越える「摂理」だった。
(つづく)