先週土曜の11日、中央線西国分寺駅前のいずみホールで、映画『医師中村哲の仕事・働くということ』の上映会があった。
この映画は、「ワーカーズコープ」(日本労働者協同組合)が協同労働法成立記念として日本電波ニュース社に依頼し、一昨年製作されたもので、中村さんが「働く」ということをどう捉えていたかに焦点を当てている。
行ってみると入場受付には長い列ができていて、私はキャンセル待ち11番。なんとか会場に入れたが、定員370席が満席だった。
あまりメジャーではない映画にもかかわらず、これだけの人が観に来るとは。中村哲医師に学ぶ、そこから生きるヒントを得る、いわば中村哲“再発見”のうねりが続いているように思われる。これは一種の社会現象と言っていいだろう。
私はすでにこの映画を観ていたが、アフタートークに出る、中村さんを20年以上にわたって取材してきた谷津健二さんを目当てに行ったのだった。谷津さんは、私の日本電波ニュース社時代の後輩で、トークのあと一緒に昼食をとって話をした。
話がビクトール・フランクルに及ぶと、谷津さんは、アフガニスタンの中村さんの書棚にフランクルの本が何冊もあったと教えてくれた。激務のなか、どんな思いでフランクルを読んでいたのか。
中村さんのフランクルとの出会いは、はやくも高校時代だったようだ。
当時、中村さんは“強迫神経症”に悩まされ、一時ノイローゼ状態になったという。
「ひととうまく話せない。話そうとすると顔面が紅潮し、手や足が震え出す。極端な話、駅の改札口で切符を渡すときでさえ『手が震えるのでは』と不安になって、動作がぎこちなくなる。とくに同年代の女性を前にすると、もう、だめでした」(中村)
「自分はどこかおかしいんじゃないか」と思い悩むなかで、フランクルを読んだようだ。たしかにフランクルには「神経症」のタイトルのついた著作もある。“教養”としてではなく、自らの深刻な苦境を打開しようという問題意識で読んだのだろう。この影響で、中村さん自ら精神科医をめざしたのかもしれない。(丸山直樹『ドクター・サーブ』P273~286参照)
以上、本ブログ「中村哲医師とフランクル」への補足でした。
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アフガニスタンの人びとが近代的価値観を受け入れないのは、単に「ウルトラ保守主義で凝り固まった無知な連中」だからではなく、部族社会の規範、掟の根幹に、ある“構造”が存在するからだ。元駐アフガニスタン大使の高橋博史氏によれば―
アフガニスタンの主要民族、パシュトゥン人の慣習法、「パシュトゥンワリー」に「ノムース」という言葉がある。翻訳すると「名誉」、「誇り」に近いが、非常に活用範囲が広いという。反対の言葉が「ベ・ノムース」で、ノムースを有していないという意味になる。
とくに相手の家族や一族の女性成員に関する事柄に触れることは、相手の「ノムース」を汚したこととされる。
例えば、「ご家族によろしく」、「奥様によろしくお伝えください」などと挨拶すれば、相手の「ノムース」は汚され、相手は恥辱をすすぐ必要が生じる。恥辱をすすがなければ「ベ・ノムース」な最低の人間であるとレッテルを貼られる事態になる。
タリバンにとっては、教育の問題に限らず、自分たちの(アフガニスタンの)婦女子について、よそ者である国連や欧米諸国がうんぬんすること自体、自分たちの「ノムース」が汚されることなので憤激した。これをそのまま放置すれば「ベ・ノムース」の汚名を着せられてしまう。そこで恥辱をすすぐため、国際社会に向けて“反撃”に出ることになる。
国際社会は、婦女子に教育を受けさせないタリバンを、女性の人権を無視した頑迷で無知な人びとであると非難する。しかし、タリバンは、婦女子教育が是か非かを問題にしているのではなく、自分たちの「ノムース」が汚されることに憤っていたのだ。つまり議論がまったくかみ合っていないのである。(P155-156)
なるほど、そうだったのか。
高橋氏は一つのエピソードを記している。
ムジャヒディンが対ソ戦を戦っていたとき、日本政府は戦傷者治療プロジェクトを支援していた。近隣諸国では治療が困難な戦傷者を、日本で治療する国連のプロジェクトで、中には空爆による女性の戦傷者もいた。日本政府は彼女たちの治療のために、6カ月間の査証を発給することにした。ところが、希望者は一人もいなかった。
女性だけを外国に送って治療させることは、アフガニスタンの男性にとって「ノムース」を汚されることになるからだ。
そこで、国連機関は、家族の男性成員が付添い人として同行する方法を考え出した。
それによって、その女性の家族以外の男性との接触をコントロールし、「ノムース」が汚されないようにするのだ。その結果、希望者が出てきて、プロジェクトの実施が可能になったのである。
我々なら、女子への付添いは母親や姉妹など女手の方が良さそうに思うのだが、思考回路がまったく違うのである。
これはもう、良いとか悪いとかではなく、慣習法、掟として存在する事実を認めるしかない。
(つづく)