権力との緊張関係を忘れないウクライナのジャーナリズム

15日の天皇のお言葉(テレビ朝日より)

 原爆忌敗戦の日も、平和について考えるとなると、必ずウクライナに思いを馳せてしまう。

 ロシアの侵攻からはや半年。戦況のニュースより、ウクライナの人々のがこの戦争でどう影響されたのか、何を考えているのかを知りたい。報道も次第にそちらの方向に向かっているようだ。

 14日の『朝日新聞』に、ロシア軍による虐殺が起きた首都キーウ近郊のブチャの住民の悲惨なエピソードが掲載されていた。

14日朝刊第1面

 ブチャに住むタチアナ・ナウモウ(38)の証言。

 元ガス会社員の父セルゲイ・シドレンコ(65)はウクライナ民主化運動の熱心な活動家。母リダ(62)は世話好きで、近所の独居のお年寄りらに、しばしば料理を配っていた。 

 2月27日、ロシア軍がブチャを占領すると、一家が暮らすイワナクランカ地区にも装甲車が駐留した。リダはロシア兵に「なぜ来たのか」などとウクライナ語で問いただした。

 ウクライナ軍との砲撃戦が激化する中、逃げるか留まるか一家の判断は揺れた。
 自宅は3月3日に停電、5日にはガスも止まる。3月のウクライナは零下で寒い。タチアナは夫と息子とキーウに脱出。父母だけが留まる選択をした

 タチアナは「ロシア軍でも、対話を刷れば殺しはしないと、両親は信じていました」という。

 父母は砲弾を避けて地下蔵で暮らし、3日に一度は外に出てタチアナに携帯で連絡を取った。3月22日、涙を見せたことのない母リダが、3分間ほどの通話の間じゅう泣き続けた。それが最後の電話だった。「後から思うと、母は別れを告げていたのです」

 リダの日めくりカレンダーは22日で止まっていたので、その日に両親が殺されたとタチアナは信じている。

 4月1日にロシア軍がブチャを撤退したあと、4日に近所の人が周囲を撮影して避難先のタチアナに送ってくれた。町外れに放置された黒焦げの遺体が両親だった。母リダは腕を切断されていた。

 タチアナが自宅に戻ったのは16日。血だらけの父の帽子と、頭皮がついた母の髪の毛が庭に落ちていた。父母は拷問を受けていたのだと思います」

 ブチャでは、数百人の市民がロシア軍に虐殺されたとされ、その遺体は路上や庭に放置された。軍人でもなんでもない老夫婦を、残忍な拷問の末になぶり殺しにするという許しがたい暴挙だ。

 人命が第一なのだから、とにかく戦闘はやめるべきだ、白旗を掲げて降伏すれば命だけは奪われない。日本にはそういう考えの人もいるけれど、実態は、ロシア軍の支配下に置かれたら、命が助かるどころか、何をされるか分からない最悪の状況になるのだ。

 ブチャの虐殺が知れ渡ると、ウクライナ国民から、ロシアとの停戦への拒否感が一気に高まったという。

 ゼレンスキー大統領は12日、ウクライナ最高会議(議会)に対し、ロシアの侵攻を受けて発令している戒厳令と総動員令の延長に関する二つの法案の承認を求めた。成人男性の出国禁止を継続して兵力確保に備えるなど、長期戦を視野に入れた措置。11月まで3カ月延長するとみられる。

 ロシアが撤兵しなければ抵抗が長引くことは必至だ。

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 ウクライナのジャーナリストたちはどう活動しているのか。

 戦争中の国家が報道を締め付けて虚偽の情報を国民に流すことは、かつての日本が体験した痛恨の歴史だ。負け戦を隠し、戦意高揚の記事のみを発表したことで、膨大な無用の犠牲者を出すことを後押ししたことは、日本のジャーナリズム史の汚点である。

 私も知りたかった戦争とジャーナリズムというテーマを先週のTBS「報道特集」が取り上げていた。

 ウクライナでは、激しい戦闘が続く中、国家権力とジャーナリズムがかなり健全な形で向き合っているという印象を持ち、感心した。

 激戦地だったチェルニヒウ(キーウの北東130キロにある古都で、ロシア軍の砲爆撃で町の7割が破壊されたとされる)では、戦火のなか、ジャーナリストが命を危険にさらしながら取材を続けた。それはなぜかと聞かれて―

《ここで起きていることを全世界に向けて発信することは非常に大切なことだった。》とカメラマン。記者は

《街の住民は「自分たちは忘れられた存在だ」と落ち込んでいた。「忘れられた存在ではない」としっかり示すことが私たちの使命だった。

 自分の使命をきちんと自覚している。

報道特集13日放送より

 国防省の会見で、金平キャスターが、ウクライナ軍の犠牲者の数を公開するよう迫ると、報道官は―
《戦争中は情報公開のルールがある。このルールは防衛や安全のために必要なものだ。戦時下で死者の総数は公開しない。》と原則を説明したあと、躊躇しながら

ウクライナ側の死者数はロシアよりもかなり少ない。その数は・・(少し間をおいて)数千人と述べておく》とギリギリの応対をしていた。

国防省マリャル次官(報道特集より)

 その会見に出ていた公共放送「ススピーリネ」の記者は―

《戦争時は公開していい情報とそうでない情報を区別するために、自己検閲が必要になることもある。私たちは発言の内容や伝え方について責任を負うべきだ。

 国防省や兵士にしてはいけない質問がある。外国の一部のメディアが情報をより深く知ろうとすることも理解できるが、兵士や民間人の命が何よりも大事だ。そのため私たちは特定の内容に関して質問しないこともある。》と率直にコメントしていた。

 具体的に考えながら「自己検閲」の範囲に答えを出していこうとする誠実さを感じる

報道特集より)

 ウクライナでは現政権下、親ロシア派の放送局を厳しく規制しているが、放送事業を監督・規制する「テレビ・ラジオ放送国民会議の議長は―

《今は戦争中で戒厳令が発令されている。戒厳令が発令されると、日本でもそうだろうが、どんな国でも、国を守るために情報を規制する。

 それと同時に私たちウクライナでは言論の自由を守る必要がある。日本では第二次世界大戦時にメディアは制限され、戦況を正しく伝えることができなかったと聞いている。ウクライナでは状況が全く異なる。講じられているのは検閲ではなく、必要不可欠な対策だ。》

 規制は必要だが、言論の自由という原則のもとでやっている。そこは戦時下の日本や今のロシアとは全然違うというのだろう。

報道特集より)

 ロシア軍が侵攻直後、キーウのテレビ塔を砲撃したため、公共放送『ススピーリネ』が非公開の場所で他の民放とも協力しながら24時間ニュース「団結ニュースマラソン」を流している。

 日本のNHKにあたる『ススピーリネ』の会長は、きさくな38歳だった。彼は報道の内容には口を出さないという。

《私にはニュースの制作・編集の権限はない。現場のプロである編集長がいるので。

 民主主義国家であっても政府は常に圧力をかけようとするものだ。私たちの編集長やキャスターが必要なものと”NO”と突き返すものを判断している

 将来的な課題は自己検閲だろう。記者の頭の中にあらゆる制限が存在していて、その制限がある状態で仕事をしている。

 検閲をはね除け、自分たちを守る唯一の方法は、ジャーナリズムの規範を厳守することだ。大変な道のりだが、民主主義や自由なメディアの規格、強い公共放送が必要で、私たちは他のヨーロッパの仲間の国のようになる必要がある。》

 実に立派である。権力とジャーナリズムのあいだには常に緊張関係があることをしっかり自覚し常に自己点検している。戦争中なのに、記者の自己検閲の心配までしている。

報道特集より)

 最後の「他のヨーロッパの仲間の国のようになる」という表現に、ウクライナのジャーナリストたちのはっきりした方向性を見た。

 戦時下でもないのに不要な自己規制をかけ、権力に忖度ばかりしているNHKに見習ってほしい姿勢である。