娘が見た藤沢周平

takase222008-01-06

《「藤沢周平」、これが私の父のペンネームです。》

 こんな一文からはじまるのは、藤沢周平、本名、小菅留治(こすげとめじ)さんの一人娘、遠藤展子(のぶこ)さんが書いた『藤沢周平 父の周辺』文藝春秋、06年9月)という本だ。

 藤沢周平のファンならぜひものの本だが、読んでみると「心が洗われる」というのはこういうことなのか、と思わせる好著だった。好評だったからか、4ヵ月後の07年1月にはその続編ともいえる『父・藤沢周平との暮し』という本が新潮社から出版された。(写真)こちらは若いころの藤沢周平と家族の写真がたくさん載っている。

 周平の奥さんは、展子さんを生んで8ヶ月で亡くなっている。周平は、山形から母親を呼び、東京で会社勤めをしながら、再婚するまで3人で暮していた。
童謡を知らない周平、子守唄代わりに、レイ・チャールズの「愛さずにはいられない」を幼い展子さんに歌ってきかせたというエピソードには笑ってしまう。

 幼稚園で、手作りの手提げ袋が必要になった。明日までに「絶対に作って」と展子さんに言われた周平。夜、展子さんが気になって寝床を抜け出して覗いてみると、「一生懸命に手提げを作っている、父の後姿がありました」。茶色で縞々の柄の手提げだった。今考えると、「父の背広の柄に似ていた」という。真実は何なのか、想像を掻き立てられる。
 
 展子さんの運動会に、張り切って、キュウリと干瓢を巻いたのり巻きを作ってくれた父。
 虫の嫌いな娘のため、家に入ってきたカマドウマやクモを捕まえては、殺さずに必ず外に逃がしてやった父。

 ほのぼのとしたたくさんの思い出が綴られていくが、最も印象に残ったのは、周平の口癖が「普通が一番」だったという話だ。それが娘の育て方にも貫かれている。
 展子さんは塾には行かずに高校までずっと公立。早く世の中に出て社会人になりたいと思い、高卒で池袋の西武百貨店に就職する。アルバイトの経験で人と接する販売の仕事が向いていると思ったからだ。展子さんが9歳のときに直木賞をとり、当時すでに超売れっ子だった周平だが、その娘の「普通の」進路に満足していたという。

 「普通が一番」と思っていたのは、周平が「結核で前途を閉ざされ、家族を病気で亡くして、幸せが一瞬で崩れるという経験をした」からではないかと展子さんは推測する。周平が小説家になった理由の一つは、なんと「家にいれば、いつも娘の成長を見ていられるから」だったという。小さな幸せをとことん大事にしていた人だったようだ。

 「お父さんね、隠居したら、仕事としての小説じゃなくて、売れなくてもいいから自分の好きなものを書きたいと思っているんだよ」と周平が言ったという話には共感を覚えた。仕事となると好きなようにばかりは書けない。「枚数の制限もあるし、連載だったら次に読みたいと思うように話をもっていかなくてはいけないからね」。あれだけの作家にして、妥協のなかで仕事をしていたという。

 最後に、展子さんの息子、つまり孫の浩平(ペンネーム)のために周平が作ったお話を紹介しよう。

ヒルはガーガーとなきました
ウシはモーとなきました
ヤギはメーとなきました
浩平はエーンエーンとなきました
(おわり)