「人生の目的はしあわせ」でいいのか4

 NHK土曜ドラマ「やさしい猫」がおもしろい。

 シングルマザーで保育士のミユキ(優香)は、震災のボランティア活動中に出会ったスリランカ人の青年クマラと結婚するのだが、クマラがオーバーステイになってしまい、入管施設に収容される。ここからミユキたちの国とのきびしい闘いが始まる。

収容された入管の面会室の2人。アクリル板で仕切られている(テレビ画面より)

牛久の入管施設(テレビ画面より)

 めったにテレビドラマなど観ない私だが、これは今の日本の入管行政の酷さ、理不尽さ、その中で国が違う人同士が「共生」するとはどういうことかを考えさせるものなので、多くの人に観てもらいたい。

原作は中島京子『やさしい猫』

自宅前の階段の母娘(左の母が優香)

その「自宅」のロケ現場はうちの近所

 私が収容者の面会に行った牛久の入管施設が出てきたり、そもそもロケ現場がうちのすぐ近く。主人公は私の好きな優香実家が山形県鶴岡市という設定で、楽しく観ている。おすすめです。

 日本の現在の入管体制については、

 滞在許可のない人全員を収容する「全件収容主義」をやめること、収容期間に上限を定めること、収容するかどうかの判断は司法審査(現行は出入国在留管理庁の判断)とすること、独立した難民保護委員会を創設することを最低限の改善点だと指摘しておく。

 なお、19日には以下の判決が出ている。

 「難民申請が不認定になったアフリカ系男性が強制送還される際に、出入国在留管理庁(入管庁)職員から暴行を受けたとして国に450万円の損害賠償を求めた控訴審の判決が19日、東京高裁(志田原信三裁判長)であった。判決は送還の手続きが違法だったとした上で、職員の行為についても「執行行為は全て違法」と認め、国に50万円の慰謝料支払いを命じた。東京地裁の一審判決は送還手続きは一部違法としながらも、職員らの行為は適法として、国による慰謝料を3万円にとどめていた。」(東京新聞

 

www.tokyo-np.co.jp 

 また、こんな判決も。

東京入国管理局(現東京出入国在留管理局)に難民認定の申請をしたイラン人の男性が、在留資格の更新が許可されなかったのは違法として、国に約630万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は24日、約550万円の賠償を命じた。堂薗幹一郎裁判長は、複数回の難民申請をした外国人に対し、東京入管が在留資格の更新を厳しく判断する運用をしていたとし、「必要な更新の審査をしておらず、著しく不合理で違法」と述べた。」(毎日新聞

mainichi.jp

  最近、少しづつまともな判決が出るようになっている印象だ。入管による収容に関してはいくつも裁判が進行中である。

 

・・・・・・
 「人生の目的は・・・」のつづき。

 中村哲医師は、「様々な人や出来事との出会い」において、「天から人への問いかけ」がなされ、その「応え」の積み重ねが人生だと考えていた。中村さんはどう応えていくのか。

 中村哲医師は15歳で洗礼を受けたキリスト教徒だ。

 聖書を読み込んだ中村さんは、その内容は「インマヌエル」に尽きるという。聖書を一言で要約した。

《特にマタイ伝の「山上の垂訓」のくだりを暗記するほど読んだ。人と自然との関係を考えるとき、その鮮やかな印象は今も変わらない。

野の花を見よ。(略)栄華を極めたソロモンも、その一輪の装いに如かざりき。

「汝らの恵みは備えられて在り。暖衣飽食を求めず、ただ道を求めよ。天は汝らと共におわします」。そう読めたのだ。これが日本的な解釈かどうか、神学的議論はどうでもよい。自分は単に、その言葉に沿って普遍的な人の在り方を求めようとしたのだ。
「天、共に在り」をヘブライ語で「インマヌエル」という。これが聖書の語る神髄である。枝葉を落とせば、総てがここに集約し、地下茎のようにあらゆるものと連続する。》

 中村さんは、スイス人のキリスト教神学の大家、カール・バルトに大きな影響を受けたそうだが、当時九州大学で教鞭を撮っていた滝沢克己博士(西田幾多郎の弟子)を通じてバルトを知った。インマヌエルはバルト思想の中核にあると言われる。Wikipediaの「滝沢克己」に以下の説明があった。

西田幾多郎カール・バルトの影響の下、インマヌエルの哲学と呼ばれる思想を展開した。インマヌエルとは「神われらと共に在す」の意味である。キリスト教徒であろうとあるまいと、あらゆる人は「神われらとともに在す」という事実に属している。滝沢はこれを第1義の接触という。第2義の接触は人がこの事実に目覚めるときに起きる。第2義の接触によって人は自覚を持って宗教的な生を生きることになる。》

 つまり、インマヌエルとは、神という存在は、遠い彼方にあってこの世を見守り、恩寵をたれたり裁いたりするのではなくて、この世のすべてのものと共にある、他ならぬ私の中におられるということだろう。

 中村さんが挙げる旧約聖書の「詩編」と新約聖書のマタイの福音書を引用する。

詩編
「主は我が牧者なり、われ乏しきことあらじ。主はわれをみどりの野にふさせ、憩いの汀(みぎわ)に伴いたもう。主はわが霊魂をいかし名のゆえをもてわれをただしき路にみちびきたもう。たといわれ死の陰の谷をあゆむとも、禍を恐れじ。汝われと共にいませばなり。(略)我が世にあらん限りは、かならず恵みと哀れみとわれにそいきたらん。」

マタイの福音書
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

 神が自分の魂の中におられることを自覚すると、神は「われをただしき路にみちびきたもう」のだ。それは中村さんの言う「良心」として現れることになる。これが私の解釈である。

「我々がこだわるのは、世界のほんの一隅でよいから、実事業を以て、巨大な虚構に挑
戦する良心の健在を示すことである。万の偽りも一つの真実に敗れ去る。それが次世代
への本当の遺産となることを信じている」(中村哲

 小さくともいいから、自分の持ち場で、めぐり合う人’に対して、良心をもって誠実に努めよ、そのことこそが後世への遺産になっていく。大事なのは実事業(中村さんの場合用水路建設など)そのものではなく、そこに発揮された良心である。

 これは、中村さんの座右の銘「一隅を照らす」にも、「勇ましい高尚なる生涯」が「後世への最大遺物」だとする内村鑑三の思想にも響き合う。

 良心にもとづいて判断するとは、もう少し具体的には「本当に私たちに必要なものは何か、不要なものは何かを知り、確かなものに近づく」(『私はセロ弾きのゴーシュ』より)ということのようだ。

 そうした判断の結果、成功する場合も失敗する場合もあるだろう。でも、どっちでもいいのである。なぜなら「御心にかなえば神は祝福し、かなわねば滅ぼしたまう」のだから。
 こうなると怖いものはない。究極のポジティブシンキング。
 そしてそこには、結果としての「しあわせ」があるのだろう。