覚りへの道再び

 10日、東京にまた雪が降った。
 こう寒いと、沖縄がなつかしくなる。

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那覇空港の搭乗口にはランの花が

この一年パイプは一体何をした (神奈川県 大坪智)

ウラジーミルに何か言ってよお友達 (神奈川県 山本晴男)

 それぞれ3日と11日の朝日川柳の選句だが、世界の重大事に、憂慮を表明するだけで、行動がともなわないわが政府である。
 安倍元首相は、プーチンと会った回数を誇っていたが、沈黙。「タカ派」ってこういうときには静かにしているんだな。

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 あるドキュメンタリー番組をお手伝いしていて、その取材が終わり編集に入っている。
 毎朝、某テレビ局に「通勤」。編集室の椅子に夜遅くまで座っている。運動不足になる一方、お酒を飲む余裕がないので、休肝日が1週間も続き、体にとってはプラスマイナスどうなのか?

 雪のせいか、電車がいつもより混んでいた。その車内で、ちょっとうれしいことがあった。

 座席に座っていたら、目の前に小柄な女性が立った。髪が真っ白で目元の皺からも私よりかなり年配の高齢者だ。
 それを見てとった瞬間、私の右手が彼女の腕をつかむと同時に「どうぞ」と立ち上がっていた。

 いつもは席をゆずろうというときに一瞬、状況を考えてしまう。
「自分も疲れてるし、やめとこうか」、「あまり混んでないから、すぐ席が空くだろう」、「足腰鍛えるために立っているのかも」、などと。 

 また、周りの人に自分の言動がどう見られているのかも意識する。

 それが、この時は何を考える間も無く、自然にすっと体が動いたのである。

 あとで、あの時の感覚を思い出して、ひょっとしたら、自分も少しは「進歩」しているのかな、と思った。

 「覚りを目指している」というと、お前、頭おかしいんじゃないか、そんなの無理に決まってるじゃないかといわれる。

 覚りというと、多くの人は、全ての欲望を絶った超絶の境地というイメージがあるらしく、そんなの第一ムリだし、陰気でつまんない、となる。

 私たちが目指しているのは、「仲良く楽しく生きて楽に死ぬ」、ワクワクするような明るい境地だ。

 また、菩薩として修行することに意味があり、(完全な)覚りに達しなくてもいいと割り切ってもいる。

 修行を登山に例えれば、「覚り」は目指すべき頂上だ。
 下から登って行くと、はじめは周りは灌木だらけで、山全体のどこにいるのかも分からない。
 歩みを続ければ、少しづつ眺望が開けてくる。5合目ならそれなりの、また7合目あたりではかなりの高さからの景色を楽しめる。山と自分との位置関係も次第に分かってくる。

 登るほどにどんどんいい景色が見えてくる。死ぬまでに頂上に辿り着かなくとも、修行すればするだけ、爽やかに生きることができるようになる。

 だから私は、覚れなくとも、修行した方が「得」なんだよと言っている。

 では、修行すると具体的にどんな「効果」があるのか?
(つづく)

 昔、「覚りへの道」を連載したが、
覚りへの道 - 高世仁の「諸悪莫作」日記 (hatenablog.jp)
ちょっと大上段にかまえた感じで書いたので、今回は「覚りへの道 再び」として、もっと自分の体験に即して書いてみたい。