縁に随ってまさに従容

道路わきに群生するヒメオドリコソウ(姫踊子草)。

オドリコソウやホトケノザは自生種で、これはヨーロッパ原産の外来種で明治時代に入ってきたという。
春を告げる野草の一つだ。
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きょうは、心静かに良寛の詩を鑑賞したい。

  この里に 手鞠つきつつ 子どもらと
     遊ぶ春日は 暮れずともよし


あの良寛さまである。


良寛

我生何処来    我が生 何処(いずこ)より来り
去而何処之    去って何処にか之(ゆ)く
獨坐蓬窗下    独(ひとり)蓬窗(ほうそう)の下に坐して
兀々静尋思    兀々(ごつごつ)静かに尋思(じんし)す
尋思不知始    尋思するも始(はじめ)を知らず
焉能知其終    焉(いずくんぞ)能く其の終を知らん
現在亦復然    現在亦復(またまた)然り
展転総是空    展転 総(す)べて是れ空
空中且有我    空中 且(しばらく)我れ有り
況有是興非    況(ここに)是と非と有らんや
不知容些子    些子(さし)を容るるを知らず
随縁且従容    縁に随って且(まさに)従容(しょうよう)

「私の命はどこから来てどこに去るのだろうか。
草庵の窓辺に独りで坐り、じっと静かに思惟する。
思惟してみるが、始めはわからない。
だとしたら、どうして終わりを知ることができよう。
現在もまたそうだ。
変化していくことはすべて空である。
空のなかにしばらくの間私がいる。
そこに善い悪いがあるだろうか。
他のわずかなことも入る余地はない。
縁にしたがって悠々と生き死にするばかりだ」

以下、師事している岡野守也先生の解説。
《ここには人生の様々な出来事に対して良し悪しを言うことなく、縁のあるまますべてを受け容れながら悠々と生き死にする、禅僧の自由自在な境地がうたわれています。(略)
 誤解しがちな点ですが、「独(ひとり)・・・坐して、兀々(ごつごつ)静かに尋思(じんし)す」とは、物思いにふけることではなく、坐禅をすることです。坐禅をすると、過去・現在・未来という時間の観念も、善悪、幸不幸という観念もまったく消えて空・無常なる世界の一部・一現象として仮に自分があること、それが空しかったり悲しかったりすることではなく、ありのままに実に爽やかなことであると覚られてくるのです。》
(サングラハ第145号 P44)

 良寛さまは、毎日暗くなるまで手まりをついたり、かくれんぼをしたりして、村の子どもと遊んだ天真爛漫なお坊さんとして童話にも出てくるが、江戸後期に実在した人物だ。曹洞宗の禅僧で、若い頃から厳しい修行をし、かなり高い覚りの境地にあったという。
「覚ると感情もなくなって何事にも動じなくなる」というのは誤解で、覚ると、良寛さまのように、子どもだけでなく、竹の子までが愛おしくて仕方がない(良寛と竹の子のエピソード)という非常に感性豊かな生き方ができるという。

坐禅しよう。