覚りへの道17−内面のレベル

選挙で野党が多数を取っての、まともな政権交代だ。テレビの開票番組を観ながら、娘に「きょうは歴史的な日になるよ。覚えておきなさい」と言った。日本人が投票で政権を取り替えられることを経験したわけで、この結果は取りあえず良かったと思う。
テレビで悲喜こもごもの政治家たちの顔を観ているうち、「内面の発達レベル」という問題に考えが及んだ。
「この人たちは、どのくらいのレベルにあるのかな」と。
ギリガンというアメリカの学者が、倫理発達段階の調査を行なうため、女性のグループに「女性は中絶を行なう権利があるかどうか」を質問した。これに対し、「はい」、「いいえ」、「はい」の三つの答えが返ってきた。
タイプA:
「はい、女性には中絶を行なう権利はある。なぜなら、私が言っていることは正しいからです。さようなら」
タイプB:
「いいえ、そんな権利はありません。なぜなら、それは、法律・聖書・社会その他が禁じているからです。だから、恐ろしいことなのです」
タイプC:
「はい、状況によっては、あるでしょう。関係する人に対する全般的な影響を考えれば、中絶は、やむをえない道であることもあり得るでしょう」
ギリガンは調査対象を数年にわたって追跡した。その結果、立場が変化する場合、Bは必ずCに移行してAには行かないこと、Aの人がBやCに変化することはあっても、CがBやAになることは決してないことを発見する。
これは、AからBそしてCと順に高度な倫理レベルになり、人間はこの方向に発達するということを意味している。ギリガンはA、B、Cのレベルを順に、「利己的」、「思いやり」、「普遍的な思いやり」と名づけたが、「自己中心的」、「自民族・集団中心的」、「世界中心的」とか「前−慣習的」、「慣習的」、「後−慣習的」などとも呼ばれている。
アメリカの中絶容認派はAもCもいて倫理レベルは大きく違うが、主力活動家はC。これに対して中絶絶対反対派はBだ。「はい」派と「いいえ」派は「左」対「右」のように主張が横並びで違うというだけではなく、レベルの「高」「低」でもあると言えそうだ。そして私は、このレベルの差は言動や顔つきにも表れると思っている。例えば、中絶に関する二つのデモ隊がスローガンを叫ぶ前でも、その人間たちの顔を見ただけで、どちらの派か一目瞭然だ。
それで、テレビに出る議員らを見て「どのくらいのレベルか」と思ったのだ。ちなみに、日本のマッチョタイプの政治家は圧倒的にBのレベル(その中でも低いレベル)だろう。Cレベルの政治家はかなり少ないと思う。だんだん話が乱暴になってきた。
誤解のないように言っておくと、以上はごく簡略化したモデルだ。そして、倫理を含む内面の発達は単線的なものではなく、複数の発達ラインがあって、例えば「認知」のレベルの高い(要するに頭がいい)人が「倫理」や「人間関係」、「感情」など他の点ではあまり高い発達レベルになかったりする。また、レベルは三つだけではなく、細かく八つにも十にも分けることができる。
こんなことをなぜ「覚りへの道」と題して書いているかというと、内面の発達のさらに上のレベルに「覚り」が位置づけられると思うからだ。
つまり「覚り」とは、オカルトなどとは無縁で、むしろ人間の内面のまっとうな成長の行き着く先であり、幸運にもヒトとして生まれてきた我々みなが目指してよいゴールなのである。
この「覚りへの道」シリーズは、その成長を加速させる方法の模索である。
(つづく)
参考:ケン・ウィルバーインテグラル・スピリチュアリティ