豚が扇風機になる-屠畜のお仕事

 きのうは、屠畜に縁のある日だった。しかも屠畜に関して非常に違ったイメージを学んだ。

 午後、新宿オリンパスギャラリーで、寺本 雅彦 写真展「命は循環し、魂は巡礼する~ 血となり祈となる」(12月16日〜27日)を観る。

 バングラデシュで撮影した、ムスリムにとって最大の祝祭「イード」(牛や羊を神様に捧げる祝祭)のための屠畜がメインテーマ。

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寺本雅彦さん

 町の表通りで、路地で、あけっぴろげの空間で屠畜が行われる。屠畜を見る子どもたちが印象的だ。こうやって目の前で屠畜を見ながら育つ子たちは、ハンバーグや唐揚げの形でしか動物の肉を見ない日本の子たちとどう違ってくるのか。

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路地での屠畜でもイスラムの経文を唱える


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牛が屠られるのを見る子どもたち

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《子供達は家畜が死ぬ前日まで彼らに餌をやり、その頬を撫で微笑みかけていました。
そしてイードの当日、泣き叫び家畜の命乞いをすることもなく、静かに、だけれどもしっかりと足を立ちにつけて自分の目でその姿を目に焼き付け、そして、その肉を食べる。

テレビやネットで情報として見る事とは根本的に違う、五感を通じて自分が当事者であることを理解する。

それはとても大切なことで、同時に我々が見失いつつあるもの。

僕は飲食店を経営しているので、普通の人よりも多くの食肉をその手で切り分け調理します。しかし忙しい毎日の中、グラムやキロ単位でビニールに包まれている存在に対して、命を頂いていると意識することは正直あまりありませんでした。

だけれども命が果てる瞬間、肉に変わる瞬間をその目で見た今。

彼等の命を消費するものではなく、身体に取り入れる存在に感じたいと僕は思います。

肉となり、血となり、そして祈りとなる存在。

共に歩むことで彼等の魂は昇華され、やがて僕の生きる意味にもつながっていくと思いました。》(寺本雅彦さんの案内文)

 ダッカで観た屠畜の光景から静かに哲学していく寺本さん。いい写真展だった。

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これは日本(岡山県)の牛塚。牛を供養する鼻輪の山。この風習はずいぶん前からあるそうだ。鯨の供養を番組で取り上げたことがあるが、日本人の生き物に対する感性は独特のものかもしれない。

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 夜は一転、屠畜を全く違った角度から見る人の話を聴く。

 グレートジャーニーで知られる探検家の関野吉晴さんが主宰する「地球永住計画」の「賢者に訊く」。ゲストは栃木裕さん(元芝浦屠場労組委員長)

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三鷹で「屠畜のお仕事」を語る栃木さん

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ナイフさばきも披露してくれた



 栃木さんは実は、先日このブログで書いた《「雪風」に乗った少年》の義理の息子Tさんである。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20211130

 栃木さんは、日本の社会にある屠畜に対する否定的な見方や差別は、「殺す」という言葉に由来するという。多くの人は「動物を殺すなんてかわいそうだが、我々が生きるためには仕方ない」「屠場の人も殺すことをいやがっているのだろう」などと考えている。また、「殺す」という言葉を「命を解く」「殺しているけれど活かしている」などと言い換えて「免罪符」を得たかのようにふるまっている。

 魚や野菜にも「生命」があるはずなのに、「殺すのがかわいそう」などという人はいない。お寿司屋さんに「魚を殺すことの是非」を問う人はいない。このような状況のなか、賭場で働く人たちは、「感謝して生命をいただいている」「殺すことで活かしている」などという「美談」を語らされたりする。「殺す」を「命をいただく」という言葉に言い換えるのではなく、「殺す」という言葉とまっすぐに向き合いたいと栃木さんは言う。だって、「殺さなきゃ食えないだろ?」。

 そして、屠畜の仕事は「高い技術を必要とする誇りの持てる仕事」「とてもやりがいのある、楽しくて面白さのある仕事」だという。

 栃木さんは、一つおもしろいエピソードを披露してくれた。栃木さんの高校時代の友人がこう語ったという。

「子どもの頃、自分の家では豚を育てていて、私はその豚の世話をしていました。子豚たちは、生まれて半年たったある日、出荷されていきました。私はあのかわいい子豚たちが殺されたかと思うとかわいそうで肉を食べられなくなりました。

 ある暑い夏の日、私が扇風機の前で涼んでいると、母親から『あの豚はその扇風機になったんだよ』といわれました。その話を聞いてから、私は豚肉を食べられるようになりました。」

 つまり、家畜はペットではなく「経済動物」で、それらを収穫して生計を立てている人たちはたくさんいて、肉や皮革製品は生活に欠かせない。米は八十八もの手間がかかるから「米」という漢字になっているといわれるが、肉もまた同じように多くの人たちの関りを通じて作られている。

 「生命をいただく」という言葉で素材への感謝を表現することは否定しないが、まずはそれを作った人たちへの感謝を表現すべきでは、と栃木さんは言う。家畜を育てる畜産農家、賭場まで運ぶ運搬の人たち、家畜を屠畜して枝肉などにする賭場の人たち・・。つまり、「いただきます」という感謝の言葉は、額に汗して働く人たちの知恵や技術、その労働に対してなされるべきではないかという。

 目からウロコの刺激的な話で実におもしろかった。

 また、俗に言われる「屠畜される前の牛は涙を流す」は間違いで、牛は眼球を濡らすためにつねに涙を出している、殺されることを予期することはないなど、我々の過剰な感情移入をたしなめられた。

 ただ、会場からの「持続可能な地球をという趨勢のなか、ビーガンや代替肉をどう思うか」という質問に対して、「大豆も生命だということを忘れている。同じ生命だ。肉を食べたらいいでしょう」と栃木さんは答えたが、ここでの論点は、生命の価値ではなく、地球環境への負荷という問題であり、今のレベルの肉の生産は温暖化にとっても、エネルギー効率から言っても続けていくわけにはいかないと思う。

 これについては別の機会に考えよう

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栃木裕著『屠畜のお仕事』(解放出版社