毎年、周防大島の「みずのわ出版」から柑橘類を送ってもらっているが、今年はこれ。
酢橙(すだいだい)というのを初めて知った。
毎朝これを搾って蜂蜜とお湯にといて飲んでいるが、風味がすばらしい。体にもよさそうだ。
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今月13日(土)の講演会「駆逐艦《雪風》に乗った少年」を聴きにいく。
戦争を語り継ぐ催しはしばしば高齢者ばかりになるが、今回は若い人がとても多いのが特徴だった。
主催者がとくに若者に聴いてほしいと、伝手をたどって学生中心に精力的に声をかけた結果だという。
会場では60人が熱心に話に聴きいり、その他にZOOMで視聴した人もいた。
「雪風」は太平洋戦争が始まる前の年に完成し、開戦初頭の南方作戦から、ミッドウェー、ガダルカナル、レイテ、そして戦艦大和の沖縄特攻まで、主だった海の戦い全てに参加しながらほとんど無傷で生き抜いた。「奇跡の駆逐艦」、「神宿る船」とも言われている。
NHKBSでドキュメンタリー「少年たちの連合艦隊〜“幸運艦”雪風の戦争〜」を去年8月に観ていたが、乗組員の生の話が聞ける機会は貴重だ。
講師の西崎信夫さんは、94歳の高齢を感じさせない力のある声で、子ども時代から終戦までの体験を1時間半、ぶっつづけで語り続けた。そのパワーには参加者みな驚いていた。
さらにすごいと思うのは、西崎さんの記憶が非常に鮮明でくわしいことだ。命がかかっている瞬間の連続だったから、骨肉に刻み込まれているのでしょう、と西崎さんは言う。
講演を流れるテーマは「いのち」だ。万歳の声で戦地に送られる出征の朝、母親がこう言ったという。
「死んではなにもならない。生きて帰ってこそ名誉ある軍人さんだ。必ず生きて帰ってこい」。
これが復員の日まで、西崎さんの道標となった。
「戦争中、私は、どうやって生きて帰れるのか、とにかく生きることだけを考えていました」(西崎さん)
話の中で私がもっとも印象深かったエピソードは、沖縄水上特攻で沈んだ戦艦「大和」の乗組員を救助するシーンだ。「大和」の乗員数3,332名中、生存者はわずか276名。うち105名を「雪風」が救助している。
「大和」以外の9艦からも犠牲者が600名超出た。多数の遺体が海に浮かぶ中、損害が軽微だった「雪風」の西崎さんたちは、懸命の救助作業を行っていた。
著書の文章から引用する。
《それは若い兵士を引き上げようとしていたときだった。ロープがなぜか異様に重くなかなか上がらない。よく見ると、右腕をなくして左腕一本で必死にロープにしがみつく若い兵士の足を、太った下士官が掴んで放そうとしない。いくら火事場の馬鹿力でも二人一緒には無理だ。戦場では、強さと優しさは両立しない。
「放せ!放せ!」
と私は怒鳴ったが、太った下士官は絶対に放さない。思い余って、先が曲がった鉤棒(かぎぼう)で下士官の腕を強打すると、もんどりうって波間に沈み、片腕の若い兵士だけを助け上げた。
その後、海水が背中から白いシャツに入り、プーッと膨らんだうつ伏せの遺体が私の前に来たとき、先ほど鉤棒で落とした太った下士官のように思えて仕方がなかった。その膨らんだ白いシャツが、私に対する怨恨の眼差しのように見えて脳裏に焼き付き、それから74年、忘れた日は一日たりとてない。》(著書P224)
こういう具体的で生々しい体験があってはじめて、戦争はやってはいけないというメッセージが心に届く。とても聴きごたえのある講演会だった。
戦争体験の風化が激しいなか、とりわけ若い人たちへの働きかけが重要だと思うので、今回の成功は今後への教訓になるだろう。
会場で知り合いのTさんが忙しく立ち働いているので、声を掛けたら、彼の奥さんのお父さん、つまり義父が西崎さんなのだという。
そして講演会から5日後の18日、TさんのFBを見て驚いた。
「本日20時19分に義父が急逝した。死因は急性大動脈解離。」
13日の講演会のあとに熱が出て腰や膝が痛むなど体調を崩し、18日に容体が急変して入院、そのまま亡くなったという。
Tさんによれば、西崎さんは講演会のために周到な準備をしておられたそうで、あの日はまさに最後の舞台となった。渾身のメッセージを私たちに託したのだと思う。
ご縁に感謝し、心よりご冥福をお祈りします。