永遠の0は反戦文学だった

takase222014-04-16

ここ一ヶ月近く土日もなく仕事だった。
放送が一つ終わったので、きのうは休み。午前、たまった私用を片付け、午後はかみさんの買い物に付き合って吉祥寺に行く。
吉祥寺にはバウスシアターという雰囲気のある映画館があり、そこで「それでも夜は明ける」を観る。米国北部で幸せな過程を持つ自由黒人が、いきなり人買いに拉致され、南部に奴隷として売られてしまったという実話に基づく映画。とてもよかった。
映画を観た後で知ったのだが、ここは5月いっぱいで閉館だという。小規模映画館は存続自体が難しい。残念。
帰り、駅前のハーモニカ横丁でいっぱいやる。戦後の闇市が発祥で、狭い路地にたくさんの店がまるでハーモニカの吹き口のように並んでいることからついた名前だという。
かみさんと焼き鳥屋「てっちゃん」で飲んだ後、餃子の「みんみん」で夕食をとる。
ゆっくりできて、いい休日だった。
・ ・・・・・
ところで、吉祥寺で映画を観たのは今年二回目だ。
元旦、一人だった私は、午後ほろ酔いで吉祥寺に出て、評判になっていた『永遠の0』を観た。
観客はみな私と同じくらいのおっさんばかり。一人で正月を過ごしていたのだろう。
映画が始まると、まわりからは、「しくしく」ではなく「うっうっ」という押し殺した声が聞こえる。私も呆れるほどオイオイ泣いていた。
とても感動させられたし、いい作品だと思ったが、映画で描かれた宮部久蔵(部下に「死ぬな、生きろ」と大っぴらに教えるとか)のようなパイロットが実在したのか、など気になることもあり、小説を読んでみた。
これがまた引き込まれて、電車で読んでいて何度も乗り越してしまうことになった。
意外だったのは、あの戦争がいかに無謀であり、軍部がいかに無能、無責任であるかが全編主張されていることだった。

友人の評論家、三浦小太郎さんが「『永遠の0』と第二次安倍政権」という評論を書いたとお知らせをもらい、ウェブサイトで読んでみた。
http://miura.trycomp.net/?p=2406
三浦さんの書評は読ませる。三浦さんが『諸君』に毎号書評を書いていたころは、よく重厚な思想書を取り上げていたが、教養の深さと真摯に大思想に向き合う姿勢に魅せられた。
三浦さんの今回の評論は『永遠の0』の書評として同感するところ多く、ここに一部を紹介したい。

《(前略)
「永遠の0」は反戦文学である
ここで誤解してほしくないのだが「永遠の0」を「右傾化エンタメ」「戦争賛美・戦前肯定文学」であるかに語る一部の論者は、おそらくこの小説を読んでいないのだろうと思う。本書はほぼ全編にわたって、軍部指導者の過ちと奢り、人命軽視の作戦が厳しく、しかも出精した兵士の立場から批判されている。特攻隊作戦に対しても、個々の隊員の純粋さや覚悟は美しく描かれているが、作戦そのものは全面的に否定されているし、特攻隊の生みの親と言われる大西中将に対してはむしろそれこそ右派からは怒りを呼ぶほどの抗議が浴びせられているのだ。
(略)
いや、「永遠の0」を素直に読んでみれば、そこには従来「右派」とされた人々の言説が全く反映されていないことに気づくだろう。確かに本作には、左派が喜びそうな被害者たるアジア民衆の姿はない。しかし同時に、大東亜戦争肯定論、かの戦争をアジアの独立をもたらしたものだという歴史観は同じように全く無視されている。そして何よりも「天皇陛下万歳」という言葉は、ただの一つもこの作品には出てこないのだ。
「永遠の0」の本質を最もよく表しているのは、貧しさと孤独から海軍に志願し、戦争で片腕を失った元兵士の言葉だ。彼は戦争は最悪のものだが、だれにも戦争をなくすことは出来ないと断言した上でこう語る。
「いいか、戦場は戦うところだ。逃げるところじゃない。あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を撃つ、それは兵士の務めだ。和平や停戦は政治家の仕事だ。違うか。」
この言葉は、少なくとも戦争の現場に参加したものとして、いや戦争のみならず、あらゆる職場で現実の業務をこなしている人々の言葉として、あらゆるイデオロギー歴史観にもびくともしない、庶民・生活者としての立場を宣言している強さがある。このような姿勢を思考停止や権力者への屈服と見るのは半端な知識人の傲慢にすぎない。このような元兵士を「自分の侵略戦争への加担への反省がない」などと論難する輩は、多分戦争中には「お前は皇国臣民としての意識、大東亜聖戦への決意が足りない、この聖戦の意義を理解していない」と罵ったに違いない連中である。百田のこの作品は、少なくともそのような連中の発言や書くものよりは確実に上を行っている。
(つづく)