ハルジオンが近くの遺跡、国分寺跡に咲いている。
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最近、かつての共産主義運動とは何だったのかをちゃんと検証しなくてはと思っている。
それは、最近、資本主義を乗り越え、新しい社会体制を作ろうという機運が急速に高まっているからだ。
このブログでも紹介した斎藤幸平『人新世の「資本論」』は20万部を突破する売れ行きを見せ、「新書大賞2021」の第一位、大賞に輝いた。これは、1年間に刊行された1300点以上の新書から、有識者、書店員、各出版社新書編集部による投票で選ばれるもの。つまり、今の思想状況を先取りするものと言っていい。
https://takase.hatenablog.jp/entry/20201130
以下、6人の選者の評から;
橋爪大三郎氏(社会学者)「地球を食い尽くすクレージーな産業文明を、マルクスの資本論で解明するというアプローチがすばらしい」
中島岳志氏(政治学者)「本書が提起する『コモンズの復権』は、保守も同意するところだろう。マルクスをソ連からレスキューし、新たな地平を開こうとする姿に感銘を受けた」
などなど、保守を自任する識者からも高い評価をうけているが、この本は、資本主義を脱して「脱成長コミュニズム」に進まなければならないとアジっている。
お兄さん、資本主義ってのはね、強大な前衛党と大衆運動なしには倒せないんだよ、甘いね、とオールド・コミュニストから茶々が入りそうだが、それは置いといて・・。
この本をまだ読んでいない方は、上の中央公論の「新書大賞2021」のサイトで斎藤幸平氏の「受賞記念講演」が聞けるので、ぜひどうぞ。30分で、この本の中身がわかります。
私はこの本を読んで驚きと反省があった。
まず、若い斎藤氏が、軽々と閉塞感を打ち破って「資本主義じゃやっていけないから一緒に社会を変えよう」とラディカル(根底的)かつカジュアルに訴えていることに驚いた。昔の深刻な顔をした活動家のアジとは全然違う。
彼は「チーム3.5」というのを提唱しているが、人口の3.5%が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのだ。「世の中ほんとに変わりそうだな」と思わせる彼の語り口に感心した。
反省というのは、私はながらく、社会主義なんて今の時代、無理だろと「萎縮」していた。それを斎藤氏に「リベラル・左派の想像力が貧困だ」と叱咤されたように思ったことを指す。それで改めてマルクスの古典を読もうと思った。
アメリカでも、ブログで紹介した民主党の左傾化で、公然と「社会主義」を標榜する若い活動家の勢力が無視できないほどになっている。
そもそもSDGsの17の目標をよく見ると、これは資本主義では無理だろうと思ってしまう。また、スウェーデンの環境活動家、グレタ・トゥンベリさんなどの発言を聞くと、資本主義を全否定する思想をベースにしているとしか思えない。
気候変動、格差、差別、ヘイト犯罪、富の偏在と飢餓、グローバリズムと排外主義などなど、資本主義の限界を示すと多くの人が認識しはじめているのだ。とりわけトゥンベリさんら、Z世代と呼ばれる若者は、システムチェンジを強く求めている。
いやはや、30年前の東欧圏社会主義の「崩壊」のあと、まさかこんなに早く、再び「社会主義」(またはカタカナで「コミュニズム」)への支持が高まる時代が来るとは思っていなかったなあ。
しかし、将来の選択肢は「社会主義」、とはすんなりといかない。そこに立ちはだかるのが、共産主義運動の過去の「実績」だ。
なにより人権弾圧、大量虐殺の規模がすさまじい。
ソ連はクラーク(富農)弾圧、ウクライナ飢饉などで2000万人、中国は大躍進・反右派闘争や文革などで自国民6000万人を殺した。近くはカンボジアのポルポト体制において犠牲になった170万人、北朝鮮における飢餓の犠牲者(300万人)もある。これらの犠牲者の数は、戦争によるものを除いている。
外国人に対する虐殺もある。ソ連による(国際法違反の)日本人のシベリア抑留(死者5万8千人)、数十万人のドイツ軍人捕虜の処刑・病気による死、1939年に捕虜になっていたポーランド将校全員の抹殺(その一部がカチンの森の4500人の処刑)などだ。
共産主義の犯罪による犠牲者は合わせておよそ1億人にのぼる。この前にはナチズムによるホロコーストがかすんでしまうほどだ。
現在進行形の犯罪としては、中国によるウイグル族へのジェノサイド、北朝鮮の政治犯収容所における虐殺・飢餓死がある。(もっとも、今の中国を「社会主義」というのかという問題はある)
結論として、人類にとって、「左の全体主義」のほうが、「右の全体主義」よりはるかに大きな災厄だったと言っても反論はないだろう。
共産主義(少なくとも政権獲得に成功したコミンテルン系列の「共産党」の運動)の目を覆うばかりの残虐はどうしたことか。
1億人も殺すという人類史に筆頭に書かれる犯罪について、「本来の社会主義ではなかった」(ほんとうのマルクス主義は素晴らしい思想だったんだけどね)とか「共産主義運動の『逸脱』だった」(途中でちょっと間違っちゃったみたいだ)とか「民主主義段階を経ない遅れた国の革命だった」(次は発達した資本主義からの革命だから大丈夫)などと言っても、誰も安心できないだろう。
ネオナチが「あの失敗は繰り返さない」と言ったって信頼されないだろ。いや、その前にナチスを賞賛したらドイツじゃ刑事罰だ。
どこがどうおかしかったのか、かつて共産主義に共鳴して活動した者として、考えていくのが責任というものではないか。そう思ったのだ。
いろいろ脇道に入りながら、これから書き続けてみたい。
(つづく)