戦争遺跡になった松の木3

 きのう、近所の国立市の「たまらん坂」を通りかかると、ギターで歌う人が・・。

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 ロック歌手・忌野清志郎の13回忌だという。ここは彼が青春時代を過ごし「RCサクセション」の曲「多摩蘭坂」にも歌われた“聖地”なのだ。毎年5月2日には、花やお酒などのお供えをしてファンが故人を偲んでいる。

 私はとくにファンというわけではないが、井上陽水と合作した「帰れない二人」という曲は大好きだ。また、彼のかつてのマネジャーに頭を殴られて3針縫ったwwという変なご縁がある。

https://takase.hatenablog.jp/entry/20090215


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 遅れていたワクチン接種が始まった。

 東京・江東区では集団接種を予定する。ワクチンの供給量が限られ、低温管理が必要なため、民間の医療機関に少量づつ配布して摂取してもらうよりも、大規模会場で摂取する方が効率的だからだ。だが、そのための医師や看護師の確保がむずかしいという。

 地元の医師会などの協力では足りず、江東区は人材派遣会社に委託。そこでは「単発勤務OK コロナワクチンの問診 日給10万円」などという求人情報を出しているという。各地で集団接種が本格化すると人材の取り合いになる。

 そこに東京五輪組織委員会は日本看護師協会に、大会中の医療スタッフとして看護師500人の派遣を要請したからたまらない。病院や福祉施設などの労働者でつくる日本医療労働組合連合会医労連)は30日、「派遣要請は直ちに見直すべき」だとする談話を発表した。

 コロナ感染の拡大で各地で医療崩壊が起きるなか、菅首相は「休んでいる看護師が多い」から500人の確保は可能だなどと、浮世離れした認識を披露。こんな状態で五輪をやれるのかとの問いに、五輪を開くのはIOCだから、ぼくは知らないよ・・と繰り返すばかり。
 世論調査では7割が中止か延期すべきとの結果で、五輪開催はまったく歓迎されていない。「無観客でもやる」というのが政府の「決意」らしいが、28日付の「かたえくぼ」(朝日新聞)には・・

 「無選手」でも開催しそう――国民 (東京・イエスマン

 もう力なく笑うしかない。
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 きのうのつづき。

 松の根や松脂から油をとって代替燃料にするというプロジェクトは、どのようにはじまったのか。

 1941年12月の対米開戦当初は優位に推移した戦況も、翌42年6月のミッドウェーでの敗戦からは敗北が続いた。
 制空権、制海権を失うと、南方の原油も届かなくなり、ついには木炭でバスを動かすまでに日本は追いつめられた。
 遅まきながら国内油田を再開発しようと、南方に派遣していた民間の石油技術者(帝国石油から徴用されていた技術者500人)を帰還させようとしたが、1945年4月、彼らが乗った「阿波丸」が台湾沖で米国潜水艦に撃沈されるなどして挫折した。「阿波丸」の犠牲者は2000人余りにのぼった。

 石油の代替燃料としてアルコール、生ゴムからの潤滑油精製、大豆、ヒマの実など植物油の蒸留などが考えられたが、最も注目されたのが松根油からの石油精製だった。(この一連の経緯は「ブックレット20頁」以下を引用)

 きっかけは昭和19年(1944年)3月、ベルリン駐在武官から軍令部(注)宛ての「ドイツでは松から採取した油で航空機を飛ばしている」という一通の電報だったという。
 (注:軍令部とは海軍の参謀機関で陸軍の参謀本部に対応する)

 海軍はこれに飛びつき「松根油からのガソリン生産は可能」で、採油量100万キロリットルと結論づけた。それを聞いた軍令部の一参謀は、立ち上がって「松根油は神風だ」と叫んだという。

 こうして1944年から、「200本の松で1機の飛行機が1時間飛べる」をスローガンに、日本全土で一大動員が始まったという。

 日米の資源の差は絶望的に大きく、広がる一方だった。
 航空ガソリンでは、終戦時、アメリカ石油のオクタン価100のガソリン生産量は約1億2000万バレル。これに対して日本はわずか30万バレルで、オクタン価82と質も悪かった。(オクタン価とはノッキング現象の起こりにくさの数値で、96以上がハイオク、89以上が普通ガソリン。現在の航空燃料は130程度) 

 期待された松を原料にした代替燃料だったが、当時の日本では、松根油からガソリン精製はまだ未確立の分野だったようだ。
 製造工程の詳細は省くが、第一次工程の加水分解する小規模の「乾留工場」が全国いたるところにあり、上小地域上田市小県郡)だけで4か所確認されたという。最終的なガソリンへの精製ができる施設は、山口県徳山の海軍燃料廠だけで、結果的に製造されたとされる航空ガソリンはわずか500キロリットル。大騒ぎした割には、微々たる量だった。しかも単独で航空機に使用することは、ほぼ不可能だったようだ。(以上は石井正紀『陸軍燃料廠』からの引用)

 一方、松脂(まつやに)がどれほど製油化されたかについては不明のままだという。

 松根、松脂をめぐる空騒ぎを、上記の本の著者、石井正紀氏は、「いかにも日本的で、泥縄式の愚挙だった」と断じている。

 新聞はこの「空騒ぎ」を煽りたてた。
 「B29への怒りで松根油増産」(信濃毎日新聞 昭和19年12月24日)
 「取ろう松脂 決戦の燃料へ 簡単にできる良質油 本土いたるところ宝庫あり」(朝日新聞 8月4日)
 「日本的技術が生む 翼の高性能燃料 資源豊富一億で生かせ」(毎日新聞 8月12日)

 最後の記事など、「玉音放送」のわずか三日前だ。国民には真相が知らされず、ひたすらお上の指示で動かされた時代だったのである。

 今から見ると、「あほらしい」話だが、科学と理性を大事にせず、説明抜きで国民を従わせようという傾向は今も見えるようで、ちょっと気味が悪いな。

 「ブックレット」の「おわりに」に、《「ヤマンバの会」が調査を始めてから、本書の刊行まで10年以上経ちました。調査は、時間的にぎりぎり間に合ったというのが正直な気持ちです》とある。
 松脂採取経験者などの証言者の多くが鬼籍に入り、戦跡の松も松枯れなどで急速に姿を消しつつあるという。
 私が見に行った日野市高幡不動尊の松脂採取跡を残す松の木も、2012年には何本もあったという。それが今残っているのは1本だけだ。

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『多摩の戦争遺跡』には2012年の撮影時、高幡不動の裏山には傷痕のある松が何本もあったと記されている

 「ヤマンバの会」が2003年に2本の傷痕のある松を発見したのは偶然だったにしても、その後の調査活動は、戦争に関する鋭い歴史感覚をもつ市民がいたからこそできたと思う。そこから日本近代史の研究に大きな財産ができたことに感銘を受ける。
 こうした市民活動はぜひ続けていってほしいし、日本の他の地域でも活性化することを願う。

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千葉県市川市の松脂摂取跡のある松について報じた毎日新聞記事。市川市の木がクロマツなのだという。長野から始まった運動で、松の木が戦跡として認知されるようになってきた


 ところで、「ブックレット」を読んでいたら、知っている人の名前があった。
 「ヤマンバの会」は、1993年、上田市の地元の人に愛された、「ヤマンバの木」という愛称のある老松が枯死し、「お別れ会」が催されたのが結成のきっかけだそうだ。「お別れ会」の会場には《200人以上が集まり、シンガーソングライターの黒坂正文さんと園児たちによって「風になれヤマンバの木」が歌われました》とある。

 おお、黒坂さん、なつかしい。
 私が早稲田大学に入学したとき、黒坂さんは第二文学部の4年だったはず。黒坂さん所属の「早大合唱団」が活発に活動していたころで、そこには知り合いがたくさんいた。
 黒坂さんと個人的に親しかったわけではないが、私が入学する前年、♪でっかい広場と 青い空と 僕らの夢をください・・(「広場とぼくらと青空と」)を作った人として知られていた。この歌は私もよく歌ったものだ。

 今回、戦跡の松に遭遇したことから、黒坂さんの名前を拝見したのもうれしいご縁である。