王兵(ワンビン)監督の8時間超の大作、『死霊魂』を観てきた。
《いまだ明らかにされていない中国史の闇、〈反右派闘争〉。1950年代後半、「我々は人民の自由な発言を歓迎する!」と中国共産党が主導した〈百家争鳴〉キャンペーンにのせられ、自由にモノを言ってみたら、〈右派〉と呼ばれ、55万人もの人が収容所に送られたのだ。そこに、大飢饉が重なった。「4500万人の死者を出した史上最も悲惨で破壊的な人災」(フランク・ディケーター著『毛沢東の大飢饉』)ともいわれる凄惨極まりない飢餓によって収容所は地獄と化した。カメラの前で語るのは、生還率わずか10%ともいわれた収容所を生き延びた者たち。2005年から2017年までに撮影された120人の証言、600時間に及ぶ映像から本作は完成した。》(公式サイトの解説より)
私は王兵監督作品が好きで、『無言歌』、『鳳鳴―中国の記憶』、『収容病棟』、『三姉妹』、『名前のない男』を観た。
このうち、『無言歌』(これは劇映画だが)と『鳳鳴―中国の記憶』は監督のメインテーマの「反右派闘争」にかかわる作品だ。監督の叔父2人が「右派」として告発されたが、収容所で何が起きていたか、またこの時代の全体像については詳しく知らなかったという。
この話の舞台になった夾辺溝(きょうへんこう)の再教育収容所は、ゴビ砂漠にあって、送り込まれた3200人のうち生きて出てきたのはわずか500人だったという。
生還者の一人一人の証言がすさまじいドラマである。さらに収容所の職員(つまり看守)と犠牲になった人の妻の証言が事件に立体感を出している。
うち一人だけ紹介させてほしい。
まじめな中学教師だった裴紫豊(ぺイ・ズーフォン)は、自由にものを言うことを奨励する「百家争鳴」「百花斉放」運動のなか、地域の共産党幹部に少し意見を言っただけで「右派」とされた。それでも、再教育で自分を変えようと毛沢東の本を暗記し、希望にみちて夾辺溝に出発した。
裴は収容所で餓死するが、その妻だった范(ファン)ペイリンがカメラに証言する。
裴から届く手紙には、うまくいっていて食事も足りていると書かれてあったが、それは家族を心配させないためだった。面会に行きたかったが、夫(裴)の母親は自殺しており、祖父は牢屋にいたから、小さな3人の子どもたちを預けられない。「右派」と睨まれている自分には休暇など与えられなかった。子どもが3人とも病気になっても、一日も仕事を休めなかった。子どもを家に閉じ込めて朝早く仕事に出かけ、夜遅く帰ると熱を出した子どもがベッドから落ちていたこともある。
自分たちも余裕がなかったが、子どもの食糧を削って、夫に麦こがしを送ったが、没収されてまともに届かなかったようだ。
60年の年末に死んだことになっているが(今も正確な死亡日は不明)、知らせが来たのは61年の2月になってからだった。
亡くなる直前に書いてきた手紙には「子どものことを考えて再婚しろ。親の〈背景〉で子どもを不幸にさせないように、再婚相手は労働者か農民がいい」とあった。
62年末に、張(ジャン)という収容所の生存者と再婚した。彼は前夫と同じ中学の教師に戻った。収容所経験者だから家族になれた。前夫の忠告を守らなかった。
文革(1966年発動された文化大革命)のとき、夫の張は保守派と批判された。「造反派」からひどく殴られ、半身不随になるほど苦労し、84年に亡くなった。
涙ながらに淡々とカメラにこたえる彼女の話には泣かされた。
そしてラストシーン、カメラが、いまなお収容所跡の砂の上に散乱する犠牲者の遺骨を次々に写していく。そのカメラのマイクをゴーゴー鳴らして砂漠の風が吹きすさぶ。圧巻のエンディングだった。
王兵監督の映画に惹かれるのは、私自身が反右派闘争―大躍進の時期(1958~60)に大きな関心をもっているからだ。文化大革命の悲惨さは知られているが、実は、その何倍もの人が犠牲になっているのがこの時期である。
中国の統計の不備や、事実の隠蔽のために人数を確定するのは容易ではない。また、都市部での配給を確保するために農村を収奪し、圧倒的多数の犠牲者は農村に集中しているので、都市部の知識人などは意外に実態を知らないという。とりあえず控えめな犠牲者数として4000万人前後と推定する研究者が多い。
今は中国国内の文献でも、死亡者と減少した出生数を合わせて4000万人という数値を使うようだが、党幹部の会議では、5千万から6千万の犠牲者数が報告されたという証言もある。1989年の天安門事件の後、アメリカに亡命した元共産党幹部の陳一諮は、河南、安徽、山東、四川、青海の5省だけで3320万人が死亡したとしている。餓死は全国に及んでおり、弾圧も飢餓も酷かったとされる少数民族の多いチベット自治区や新疆、『死霊魂』の収容所のあった甘粛省などを含めないでこの数字である。
(ジャスパー・ベッカー『餓鬼―秘密にされた毛沢東中国の飢饉』より)
さらに言うと、この死者を「自然災害」に帰す説明が共産党側からなされることがあるが、常軌を逸した大躍進政策の人災である。広大で気候も多様な中国で、どの地方も飢えるというのは自然災害ではありえない。
本ブログで、北朝鮮の大飢餓(90年代後半)にふれ、アマルティア・センを引用して何度か指摘したが、飢餓は権力による言論統制が原因で発生し、政治決定の結果なのである。
私は、このたびの香港の民主運動つぶし、引き続くチベット、ウイグルでのジェノサイド、7000万人とされる法輪功の弾圧(「馬三家からの手紙」は恐ろしいドキュメンタリーだった)など、中国共産党の人権弾圧の淵源を大躍進期に見ている。
文革は、共産党の外から行った「反右派闘争」だと私は捉えている。
1989年の「天安門」の弾圧のあと、鄧小平は「200人の学生の死は、20年の国家安寧をもたらす」と言ったが、これは今も中国共産党の姿勢に引き継がれている。その鄧小平こそ、反右派闘争のときの共産党総書記だったのである。
これから、折にふれ、「中国共産党研究」を書いていきたい。