山田真貴子・内閣広報官が、体調不良を理由に辞職。菅首相は続投させる意向だったが、ひっくり返った。
辞職は当然だが、理不尽な方針にいったん固執してから状況に迫られて引っ込める、菅首相はいつもこのパターンだな。哲学もなければ、状況判断もできない人なんだ。
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ミャンマーのクーデターから1ヵ月が経って、軍部による弾圧が苛烈さを増してきた。28日には各地でデモへの発砲があり、大勢の死傷者が出た。
《ミャンマー国軍のクーデターに抗議する市民らのデモは28日も各地であり、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の声明によると、治安部隊の発砲で少なくとも18人が死亡、30人以上が負傷した。デモ参加者の1日あたりの死者数では最悪。最大都市ヤンゴンでも初めての死者が出た。
OHCHRは信頼できる情報として、南部のヤンゴン、バゴー、ダウェー、ミエイ、中部のマンダレーなど6都市で死者が確認されたと明かした。声明は「抗議デモに対する暴力の激化を強く非難」した。(略)27日までのデモ参加者の死者は計3人だった。》(日経)
今回のクーデターではっきりしたのは、NLD(国民民主連盟)に代表される民主勢力と軍部のあいだで10年以上にわたって非常に厳しい権力闘争が続いていたことだ。
私は2010年以降の民主化の動きをあまりにも楽観的にみていたことを反省させられた。
ふり返ると―
2010年11月にアウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁が解除され、翌11年にテイン・セイン大統領が就任、軍部権力の「国家平和開発評議会」(SPDC)が解散して、ついに民政移管が実現した。
政治犯の釈放やスー・チー氏と大統領との対話(11年8月)から12年4月の議会補欠選挙でのスーチー氏の当選およびNLDの大勝と、この流れをみて、両者は「手打ち」し、民主化への歩みは不可逆かと思っていた。
最後にミャンマーを訪れたのは2014年はじめだったが、外資の進出やツーリストの増加でヤンゴンの雰囲気がとても明るくなった印象をもち、軍部がもう一度事態をひっくり返すとは想像できなかった。
しかし、実際には軍部は権力をスーチー氏に渡すつもりはなく、にこやかな握手の裏ではぎりぎりの綱引きがずっと続いていたようだ。また、いわゆる「ロヒンギャ」問題がその権力闘争の激化に密接に関連していた。
デンマークとフランスの共同制作のドキュメンタリー"On the Inside of A Military Dictatorship"(「ミャンマー民主化の内側で~アウンサンスーチーの真実」2019)がその内幕を描いている。
まず、2011年の民政移管は、軍人が軍籍を離れて翼賛政党を結成し、NLDボイコットのもとでの選挙で選ばれた元軍人たちが閣僚になったもので、顔ぶれからみると、かつての軍部政権そのものだった。
このドキュメンタリーで取材した面々、大統領のテイン・セインは軍の元ナンバー4の将軍、工業相のソー・テインが軍歴40年で海軍提督に上り詰めた人物、鉄道交通相のアウン・ミンは40年間軍事独裁政権の一員で家族全員がEUの制裁対象、大統領報道官で第3次テイン・セイン政権で情報相をつとめたイエ・トウは軍歴30年、情報・プロパガンダを担当し家族全員がEUの制裁対象だった。
軍部がいわゆる民政移管を進めたのは、ひとえに国際社会の制裁解除が目的だったと当事者たちは語る。
当時、少なくとも街頭では、反体制運動が抑え込まれ、軍部は市民の民主化への願望を過小評価していた。アウンサンスーチーを自由にした措置を軍部の一部は「死んだトラを生き返らせようとしている」と批判したというが、2012年の補欠選挙で決まる議員数が全体の8%にすぎず大勢に影響がないと軽視した軍部は、スーチー氏の出馬も認めた。
当選したスーチー氏が初登院のさい、軍人たちと議会で同席することについて、「私は軍に対して好感をもっているので、一緒に席に就くことをうれしく思います。議会に民主主義的価値観を尊重してほしいだけで、(軍人を)排除する意思などありません」と語り、軍部とは妥協しながらやっていく姿勢を示していた。
軍部としては、彼らが作った憲法が最大の権力の防壁になっていた。
そこには、将軍たちは訴追されない、軍がいくつもの省庁(安全保障、国境、国防)を支配できる、連邦議会の4分の1の議席を軍司令官が指名できるなどの条項があった。そして第59条F項に正副大統領の資格として、「本人、親、配偶者、嫡出子もしくはその配偶者が(略)外国の市民でない」がスーチー氏の大統領就任を阻む。スーチー氏には英国籍の息子がいるからだ。
スーチー氏はどうしても大統領になりたいし、なってみせるとはっきり宣言していた。そこで最大の争点になったのが、この大統領条項の撤廃だが、憲法改正には連邦議会の議員総数の75%超の賛成が必要だ。ところが軍司令官枠がすでに4分の1つまり25%あるから無理なのだ。
軍部は2015年の総選挙でも自由選挙を許したが、それは占星術師が投票日を11月8日にすれば勝利できるとのお告げがあったからだと言われる。
2005年に首都を突然ネピドーに移したり、2010年に国旗を変更したのもやはり占星術師からの助言によるとされる。
ミャンマー軍部の占星術頼りはよく知られている。私がはじめてミャンマーを訪れた1980年代、45チャットや75チャットという紙幣があって驚いたが、これも占星術のお告げなんだよと市民が教えてくれた。
ところがお告げに反してNLDが改選議席の8割をとる圧勝で、政府を構成できることになった。NLDは憲法改正の討議と議決にまで持ち込むも、軍部は徹底して反対し、議決では約6割の賛成を得たものの改正には失敗。
そこで編み出された抜け穴が「国家顧問」という役職の創設だった。「国家顧問」創設のアイディアを考えたのはNLD法律顧問のコーニー弁護士だった。
国家顧問はすべての省庁のトップを管轄下に置くことができる。スーチー氏は「すべては私が決定する。第59条F項が必要なら大統領を私が選ぶ」と公言、外相と兼務で2016年4月に国家顧問に就任した。
大統領になったのはメソジスト英語学校時代の同級生のティン・チョーで、スーチー氏のいいなりに動く人物だった。軍部勢力は「民主的独裁だ」と非難し、亀裂が広がった。
しかし、スーチー氏が思い通りに政治を動かせたわけではなかった。軍部が権力を譲り渡すつもりがないことを見せつける事件が起きた。2017年1月、「国家顧問」創設の立役者、コーニー弁護士が殺害されたのだ。
スーチー氏はコーニーの葬儀に参列せず、公衆の前に出ることを避け、沈黙を通した。この微妙な時期にスーチー氏が何か言えば、事態がさらに悪化するとの配慮だったとみられる。コーニーがイスラム教徒だったという事情もあった。
その前年、2016年10月、いわゆる「ロヒンギャ」武装勢力がラカイン州で地元警察を襲撃する事件が起き、軍はこれを絶好の機会としてイスラム系住民への弾圧を始めていた。内務省、国防省、国境省は国軍の下にあり、軍は独自の判断で行動できる。
スーチー氏は長期的な見地から軍との敵対を避け、軍の行動を批判しなかった。ミャンマーの市民の間では、「ロヒンギャ」は国家を構成する民族の一つとはみなされておらず、スーチー氏が「ロヒンギャ」を少しでも擁護するメッセージを発すれば反発を受ける。
スーチー氏は、この問題に関してこう述べた。
「我々は人権侵害や違法な暴力を非難します。平和と安定、法の支配の回復に全力を注いでいます。
ラカイン州においてイスラム教徒との調和を図るために政府は最大限の努力をしてきました。今、世界中の関心は、ラカイン州の情勢に注がれています。でもみなさんには紛争地域だけでなく、我が国全体のことも考えていただきたいのです。」
スーチー氏のこの姿勢は、海外メディアや人権機関から袋叩きにあった。
こうしたスーチー氏らの勢力と軍部の権力闘争は、水面下で激化し、飽和点に向かいつつあった。そこに実施された総選挙でNLDが前回を超える圧勝となり、民主勢力を抑えられなくなったとみた軍部がクーデターに出たのだろう。
独立の英雄、アウンサン将軍は自らが創設した国軍と愛娘アウンサンスーチーを遺して逝った。いま因縁の両者はどちらも譲れない決戦の場にきている。
28日、多数の犠牲者が出て、軍部と市民との断絶は決定的になり、落としどころがまったく見えなくなった。今後、さらに大きな流血をみる可能性があり、心配である。