すばらしいラジオ放送を聴いた。
中村哲先生を取り上げたTBSの「今晩は吉永小百合です」というトーク番組。
この番組があることは、中村先生を20年以上にわたり取材を続けてきた谷津賢二さん(日本電波ニュース社)のFBで知った。
ふだん、ラジオとはほとんどご縁がないのだが、どんなものかと聴いてみたら、これが感動的だった。
最後のほうは、吉永小百合が涙をこらえながらナレーションを読んでいることが声の調子からうかがえた。聴いていた私もちょっとウルウルしてしまった。
吉永小百合が、中村さんに、いまの新型コロナウイルスに翻弄される「この事態をどう捉え、いま私たちはどう行動するべきか、そういうことについてぜひお話をうかがいたかった」と言ったが同感。
中村さんなら、政府の姿勢を厳しく批判したうえで、もっとも弱い立場の人たちを守るためにみんなができることを提言したのではないか。
この番組は、中村さんの紹介が実によくまとまっている。吉永小百合が、自らしっかりと調べているのだと思う。彼女が心から中村さんを敬愛していることがナレーションににじみ出ていた。
録音して聴きなおした。文句なしの名放送。
耳で味わうべき放送ではあるが、聴けなかった人にも内容を知ってほしいと思い、放送の文字おこしをした。
こんばんは、吉永小百合です。
昨年の暮れ、12月4日に、遠くアフガニスタンから突然の非報がもたらされました。
貧困に苦しむ人々のため、アフガニスタンに半生をささげた医師、中村哲さんが73歳にして凶弾に倒れたという事実は、いまだに信じられない、いや信じたくないという気がしてならず、その無念さと悲しみは、5か月あまりが過ぎた今でも、決して軽くなることはありません。
そこで今夜は、中村哲さんのアフガニスタンでのその精力的な活動ぶりや、そこに居を定めるまでの経緯などを、中村さんご自身のことについても、じっくりとお話しします。
また、大好きだったという、モーツアルトの音楽も、皆さまとご一緒に聞きながら、かなたの中村さんにお届けしたいと思っています。
(CM)
こんばんは、吉永小百合です。
世界中が新型コロナウイルスに翻弄されている2020年、この事態をどう捉え、いま私たちはどう行動するべきか、そういうことについてぜひお話をうかがいたかった方がいます。
それは、昨年の12月4日、アフガニスタンの地で凶弾に倒れ、世を去ってしまった、医師の中村哲さんです。
民族も宗教も超え、ただひたすら人の命を守るためだけに、危険な地域での活動をつづけてきた中村さん。
その命が奪われてしまったことは、言葉では言い表せないくらい悔しい気持ちでおります。
中村さんはかつて、アフガニスタンに蔓延していたハンセン病から人々を救い、戦乱と大干ばつによる、貧困と生命の危機を克服するために、井戸を掘り、用水路を作るという、偉大な仕事を成し遂げた医師、ドクターです。
私は中村さんとお会いしたことはないのですけれども、「ペシャワール会」という会に入会して、一所懸命サポーターの一人として応援していました。
そして2016年には、『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』という中村さんのドキュメンタリーのDVDの中で朗読を担当させていただきました。
そのDVDでは、大きな砂漠に、苦難の果てに用水路をつくって農作物ができるまでになる、そして緑の木々が用水路の岸に植えられて、ほんとに鮮やかな青々とした大地によみがえる、そんな映像が作られています。
これはほんとのことなのかしら、と思うぐらいに見事な用水路づくりでした。
その実際の活動については、後ほど、もう少し詳しくお話ししたいと思いますけれども、まずは、医師をめざして医科大学に学んだ中村さんが、なぜ、このような活動に生涯をささげることになったのか、子どものころから、歩みをたどってみましょう。
中村哲さんは、終戦の翌年にあたる1946年9月15日、九州の福岡市に生まれました。
お父さんは、大正時代から労働運動に身を投じていた社会主義者でした。
お母さんとの出会いも、その活動を通じてのことだったそうです。
このお母さんの兄、つまり哲さんにとって叔父にあたるのが、小説「糞尿譚」で昭和13年の芥川賞を受賞し、人気作家となった火野葦平です。
当時としてはかなりめずらしい環境に生まれ育った哲さんですが、キリスト教の中学校に学びクリスチャンになりました。
その後、彼が進んだのは九州大学の医学部ですが、実はこのときに哲さんがもっとも関心を持っていたのは、医学ではなく虫でした。
虫が大好きだった彼は、ほんとうは昆虫の研究をしたかったのだそうです。
でも、そんなことではとうてい大学へ行かせてもらえないので、父の期待にこたえる形で、医学部に入り、医者になって5年たった1978年、32歳の中村さんは、ある登山会の同行医師として、初めてパキスタンに向かいました。
登ったのはヒンズークシュ山脈という、アフガニスタンとパキスタンにまたがる高い山です。
この山で中村さんは、なにより好きなさまざまな虫たちに出会いました。
それからというもの、取りつかれたように、とご自身が言うほど登山に夢中になったのです。
これが中村哲さんとアフガニスタンとを結ぶ、深い縁のきっかけでした。
それではここで音楽を聴きましょう。
中村さんがアフガニスタンでいつも聴いていたという、大好きなモーツアルトの作品から、「ディメルティメント」ニ長調ケッヘル136の第一楽章です。
(音楽)
登山隊の同行医師としてはじめてパキスタンにわたり、大好きな虫に出会える高山の魅力に取りつかれてしまった30代半ばの中村哲さん。
そんな彼に、パキスタン勤務の話がもちあがりました。
下見に行ってみると、そこには数も分からない大勢のハンセン病患者がいるうえ、病院がまったく足りていないことがわかりました。
中村さんは、ハンセン病治療の実地研修を受け、英語や現地の言葉を徹底的に学び、孤立している山岳地帯のハンセン病患者のもとを訪ねて調査に歩き・・と猛烈な勢いで準備をととのえて、1984年、パキスタンのペシャワールにある病院に赴任しました。
中村さんの活動を支援するNGO、「ペシャワール会」もこのときすでに発足しています。
けれども、現地の病院にはほとんど何の設備も器具もなく、消毒の習慣さえもなかったので、ガーゼはオーブンで焼いて焦げ目のついたのを使うところから出発したのだそうです。
そして、病院を訪れる患者の多くは、当時ソ連軍の侵攻のさなかにあって、アフガニスタンから逃れてきた難民でした。
中村さんは、ハンセン病根絶という大きな目標に加え、アフガニスタンにも診療所をという使命感にかられます。
「医師が必要なのに、誰も行かない場所があるのなら、自分がそこへ行く」
これが中村哲さんの生涯をつうじてのモットーでした。
それではここで音楽を聴きましょう。
U2で、「プライド」。
(音楽)
続々とやってくるアフガン難民の患者たちを前に、パキスタンからさらにアフガニスタンをめざした中村哲さんは、医療の枠をこえた意外な活動によって人々の命を救うことになります。
その活動についてはお知らせのあとでまたお話しを続けたいと思います。
引き続きお聞きくださいね。
(CM)
今夜は、昨年12月4日にアフガニスタンで凶弾に倒れ、惜しくも73年の生涯を閉じてしまった医師、中村哲さんについてお話しています。
ハンセン病の治療を目的としてパキスタンに赴任した中村さんが、次に目指した場所は、あらゆる感染症が多発しているアフガニスタンの山村地帯でした。
内戦のさなか、中村さん率いる医療チームは、山から山、谷から谷へと歩き、アフガニスタンの奥深い村の人々と交流を深めていきました。
そして1991年には診療所を開設、その翌年には、当時のアフガニスタン政権が倒れ、難民の多くが帰郷を果たします。
ところが、いよいよ本格的な復興という時期に入ったアフガニスタンは、2000年、世紀の大干ばつに見舞われ、600万人が飢え、100万人が餓死寸前という事態に追い込まれました。
中村さんによれば、餓死の最期というのは、たいていの場合、体が衰弱してきて、ちょっとした病気にかかって、下痢が止まらずに死んでしまうというのが普通です。
その犠牲者は、主に、体力のない子どもたちでした。
とくに子どもは、がまんしきれずに、飲んではいけない泥水を飲んでしまいます。
そのために、赤痢にかかって命を落とすというケースが非常に多かったのです。
そう中村さんは話しています。
この危機を目の当たりにした中村さんは、自らが率いるNGO、PSM「平和医療団日本」の活動として村人を集め、まずは、今ある井戸をさらに深く掘ることをはじめました。
続いて、新しい井戸も掘っていきます。
中村さんいわく、飢えや渇きは薬では治せません。
抗生物質を買う1000万円があるなら、井戸を100本掘る方がはるかに効果がある、と考えたのです。
この活動によって、井戸の数は1600か所に達し、飲み水は確保できるようになりました。
それではここで音楽を聴きましょう。
歌手の加藤登紀子さんが中村さんにささげた歌、「Revolution」です。
加藤さんは、2001年、911の同時多発テロの直後、中村さんが発表したコメントに心を打たれ、以来、中村さんとペシャワール会の活動への支援を続けていらっしゃいます。
では聴きましょう。加藤登紀子さん作詞作曲の「Revolution」。
(音楽)
たくさんの井戸ができて、飲み水を確保したアフガニスタンの村の人々にとって、次に必要なのは、自給自足の生活をささえる畑のための水です。
そこで中村さんは、用水路を作るという新たな計画をたて、「緑の大地計画」と名付けました。
合言葉は、「100の診療所より、1本の用水路」。
必要な経費は日本の「ペシャワール会」があつめ、さらに日本の若者たちもアフガニスタンへ工事の手伝いにやってきました。
また、生活のために兵士として働いていた現地の人々も、銃を捨てて工事に協力したといいます。
こうして2010年、7年がかりでついに一本の用水路が完成しました。
それは現地の言葉で「真珠」を意味する「マルワリード」と名付けられ、緑の畑を潤しています。
中村哲さんがペシャワールに赴任してから26年、青年医師は63歳になっていました。
その後も中村さんの活動は着々と進み、昨年12月2日、あの銃撃の前々日、「西日本新聞」には彼が書いた活動報告が載りました。
「我々の『緑の大地計画』は、ジャララバード北部の農村を潤し、2020年、その最終段階に入る」。
最終段階の完成を見ずして、中村さんは無念の最期を迎えてしまいましたが、多くの同志たち、そして現地の人々によって、必ずや実現されることでしょう。
アフガニスタンでも日本でも、彼を敬愛する人たちは、中村哲さんは今も生きていると思っています。
親交の深かった、医師の喜多悦子さんは、
「中村哲は死んでいない、永遠に生きている、誰も彼は殺せない、しばらく休んでいるのだ」
そう語っています。
いま、ガンベリ砂漠には、2011年の4月には見事な麦畑ができています。すばらしい写真を見ていますけれども、ほんとうに、きっと近いところから、中村さんは、その様子を眺めていることでしょう。
では、中村哲さんのしばらくのお休みの時間にささげる名曲、モーツァルトの「レクイエム」から、感謝の賛歌を意味する「サンクトゥス」をご一緒に聴いて、きょうの締めくくりとしましょう。
(音楽)
いくつか注釈。
吉永小百合が朗読したというDVD『アフガニスタン 用水路が運ぶ恵みと平和』は、主に谷津さんが撮影した映像で構成されたドキュメンタリーで、アマゾンでも売っている。
日本電波ニュース社から直接購入も可。
http://www.ndn-news.co.jp/shop/pickup/Megmitoheiwa.html
中村さんの家族について。
火野葦平もまた、早稲田大学時代から社会主義運動に打ち込んでいて、中村哲さんの父親、勉さんとは同志だった。中村勉さんが北九州若松の市議会選挙に立候補し、火野らが応援、落選する経緯が、火野葦平の実名小説『花と龍』に書かれている。
加藤登紀子が感動したという、911直後の「中村先生のコメント」については彼女自身が以下のように語っている。
《2001年に9・11のテロがあったでしょ。ニュースで哲さんが、アフガニスタンからのメッセージということで「砂漠の上に爆弾を落とすのはやめてもらいたい、そこには人々が生きているんだ」と言っていました。9・11のテロで、みんなすごくショックを受けているときに、たまたま日本に帰国していた哲さんがニュース番組にお出になって「テロリストを爆撃で殺せばいいんだっていう、この答えの出し方は最悪です」とおっしゃいました。このメッセージは、たくさんの人に伝わったと思います。ただ、肝心の爆撃する人たちの耳には届かなかったので悔しいですね。私、毎年末にコンサートで募金活動をしているんですけど、その年の年末に、アフガニスタンで緑を増やし、水をなんとかしようとしている中村哲さんにお会いしようと、声をかけたのがはじまりです。》https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191206/k10012204351000.html
12月2日に「西日本新聞」に載った中村哲さんの活動報告「信じて生きる山の民」は以下https://www.nishinippon.co.jp/item/n/564486/
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新型コロナについての厚労省発表から。
きのう14日発表では、新たな陽性者が315人で、新たな検査実施が10,849人。
PCR検査実施人数が1万人を超えたのは初めてだ。安倍首相は1日2万人検査する体制をつくると言ってそれはまだ実現していないが、増えたのはよかった。
この検査結果は明日あたりから出てくると思われるので、陽性者の数を注視したい。
きょう15日発表では、陽性者457人、検査実施が4,685人。
陽性者が1週間前ほど多くないのはよいのだが、これは先週末に検査人数が減った結果かもしれない。分母が小さければ陽性者も少なくなる。
一喜一憂せずに今後を見守りたい。
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あまりにもひどい安倍政権の新型コロナ対策に業を煮やした地方の行政担当者や医療従事者が動き出している。
東京都医師会は、このままの検査体制では医療崩壊を防げないと、PCR検査を保健所、「帰国者・接触者相談センター」、「帰国者・接触者外来」を通じる形から、かかりつけ医からすぐに、都内20か所に新設する「PCRセンター」に送って検体採取する方式にするという。検査は民間の検査機関に委託して迅速化する。センターには地域の医師が持ち回りで詰めるという。
その他、地方での試みもこれから紹介していこう。
安倍内閣が得意げに打ち出した「世帯に30万円」が非難轟々で、それを反映した動きが出てきた。
きのう、いきなり与党内(二階幹事長)から「一律一人10万円現金給付」の案がでて、きょうは公明党が安倍首相に談判。その方向に動きそうだ。
市民が声をあげ、メディアがそれを伝えれば、政府のバカな施策を変えられる。
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