外国NGOを歓迎するタリバン

 12月4日は、中村哲医師がアフガニスタン南部のジャララバード市で武装集団の凶弾に斃れた日だ。あれから3年になる。

 あんな人はもう出ないだろう。偉大な人を失った喪失感はなおつづく。日本でも現地でも、中村さんを偲ぶ行事が行われる予定だ。

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 実は帰国後すぐに体がちょっとだるく熱っぽいのでPCR検査を受けたらこれが「陽性」。まもなく熱が出て寝込むことに。余計なお土産をもらってしまった。

 一方で取材の整理やら売り込みやらでせわしく、ブログを書く余裕がない。そこで、しばらくは、FACEBOOKに連載していたアフガニスタン・リポートの一部を多少書き直して転載していきたい。

 では、中村さんにちなんで、南部ナンガルハル州ジャララバード市に行ってからの22日(火)のリポートより・・

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11月22日(火)。アフガニスタン9日目。
 ジャララバードは首都カブールと違って標高が低く、南に位置しているので暖かい。きょうは日中25℃は超えたようで、日向にいると暑い。
 カブールが学校の冬休みを長くとるのに対して、こちらは厳しい暑さを避けて夏休みが長いそうだ。
 ジャララバードのあるナンガルハル州は、アフガニスタンの主要民族、パシュトゥン人が多い土地で、気候だけでなく文化もカブールとは異なっている。

ジャララバードで泊ったスピンガーホテル。65年前、王制時代の英国風建築で、広い庭がある。国営で設備は古くアメニティも皆無だが、30ドルは予算内の低料金でgood

 朝一番で文化情報省ナンガルハル州事務所へ。
 カブールの外務省で一般的な取材許可はおりたのだが、地方に行くとその現地の文化情報省からの許可も必要になる。タリバン政権も成立後時間が経ち、官僚的なややこしいルールがいろいろ出てきて面倒だ。

 それが済むと、今度は経済省の州事務所に「表敬訪問」に行かなくてはならない。取材対象のPMSペシャワール会の現地事業体)を管轄するのが経済省だからだ。PMS幹部といっしょに所長に会いに行ったら、NGO担当職員が同席した。
 NGOを管轄するのが経済省というのに違和感をもつが、タリバンNGOを外国からお金をもってくるパイプと位置付けているのではないか。そして、制裁による経済難のなか、その傾向がいっそう強くなっているのでは?

 ロシアでは外国のNGOは体制転覆をめざす西側の手先として敵視されているが、アフガニスタンでは逆に歓迎されているようだ。
 はじめの文化情報省では1時間以上待たされた。オフィスが開く朝8時に行ったのだが、所長以下幹部は来ていない。カブールの外務省でも定刻に役人が出勤して来ずに長時間待たされた。
 このアフガニスタンリポートを読んで、私たちが順調に、効率的に取材していると思うかもしれないが、とんでもない。何ごとも時間ぴったりにはいかないのがこの国である。
 会えば会ったで「まずはお茶でも」となり、お菓子をかじりながら延々と世間話がはじまる。こうしてどんどん取材時間がずれ込んでいく。
 東南アジアあたりへの出張から帰国した日本のビジネスマンが「現地のやつらは時間にルーズで困るよ」などと優越感まじりに嘆くのをよく聞くが、日本人が時間を気にするようになったのはそれほど昔のことではない。幕末から明治はじめに来日した欧米人が、「これほど時間を守らない人たちをみたことがない」と書き遺している
 明治期の強力な近代化政策が、軍隊、工場、学校などのシステムを据え、時間を守る習性を国民に叩き込んできたのだ。環境によって「国民性」のなかには変わっていく部分も多い。
 イライラしそうになったら、アフガニスタン人は「時間を守らない」のではなく、「時間に拘束されない生き方」をしているんだなと考えるようにしよう。
 でも、ほんとは困るんだけど(泣)

 二つの役所をまわって、タリバンが国際社会への復帰を希望し、日本に大きな期待を持っているように感じた。

 最初の文化情報省では、応対してくれた幹部はみなヒゲをたくわえ、民族服にスリッパのタリバンタリバンの政権掌握のあと、役所の下部には実務のわかる旧政権時代からの職員をのこしているが、トップクラスはほとんどタリバンかまたはタリバンの指名した人物にとってかわっているようだ。

 文化情報省州事務所長は私たちに、日本からのNGOの支援に期待していると語った。そして、ぜひ撮影しなさいと、日本のNGOであるSVA(シャンティ国際ボランティア会)とJICAによる「子ども図書館」の建設現場を所長みずから案内する熱の入れようだった。

SVAが建設中の「子ども図書館」。文化情報省に隣接している

 次の経済省でも、いかにもタリバンといういかつい風体の髭もじゃの所長さんが、「中村医師はアフガニスタン人のために命を投げ出して献身されました、日本の皆さんに心からの感謝を申し上げます」と神妙にあいさつ。
 この言葉を信じるとすれば、タリバン中村哲医師を高く評価していることになる。

経済省。左から2人目がタリバンの州事務所長。両端がPMSペシャワール会の現地事業体)幹部。右から2人目が同行したジャーナリスト、遠藤正雄さん。

 同時に所長は、外国メディアは、アフガニスタンの悪いことばかりを報道するが、良いことも取材するように、と釘を刺した。海外からの評判を気にしているということだろう。
 そのうちお茶とお菓子が出てきて、10分ですむはずの「表敬訪問」は1時間以上に。
 さらに所長、「あなた方には特別に護衛を2人つけてあげます」と言う。ありがた迷惑。でも断れない。

 経済省を出るともうお昼。自動小銃をもったタリバン兵2人が外で私たちを待っていた。

 午後はPMSのジア医師が中村哲医師が建設した灌漑用水などの一部を駆け足で案内してくれた。
 あすは一日かけて回ろうと思う。

 中村哲医師のことをあまり知らない人のために―
 吉永小百合がラジオで中村さんを涙ながらに語った放送がとても分かりやすい。私が文字おこししたブログがあるので、こちらをどうぞ。

takase.hatenablog.jp

とりあえず以下資料―


中村哲
 1946年福岡県生まれ。医師、ペシャワール会現地代表。PMS(ピース・ジャパン・メデイァカル・サービス)総院長。
 国内の病院勤務を経て、84年パキスタン北西辺境州、現在のカイバル・パクトゥンクワ州の州都ペシャワールのミッション病院ハンセン病棟に赴任し治療を始める。そのたかわら難民キャンプでアフガニスタン難民の一般診療に携わる。
 89年よりアフガニスタン国内へ活動を拡げ、山岳地帯医療過疎地でハンセン病結核など貧困層に多い疾患の診療を開始。
 2000年から、干ばつが激しくなったアフガニスタンで飲料水・灌漑用井戸事業を始め、03年から農村復興のため大がかりな水利事業に携わる。
19年12月4日、アフガニスタンにて凶弾に倒れる。享年73。


 PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス。平和医療団・日本)/ペシャワール会とは―
 ペシャワール会は1983年9月、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成された国際NGO
 PMSは現地事業体。当初、ハンセン病の治療に取り組んでいたが、2000年の大干ばつ時の感染症患者増をきっかけに、清潔な飲料水の確保にも取り組むようになる。さらに自給自足が可能な農村の回復を目指し、農業事業にも取り組んでいる。現在はペシャワール会の村上優会長が、PMS総院長を引き継いでいる。

首都カブールでは3万人の物乞いを強制的に排除したが、ここは強硬策を採っていないのか、物乞いがとても多い。チーズ屋をのぞいていると、何人かの子どもの物乞いに囲まれた。(正面の少年がそう)

ザクロはこの国の名物だそうで、ソフトボールより大きいのが山のように市場で売られている。夕食のデザートはしばしばザクロ