節分だ。
むかしは、節分の日は、自作した鬼のお面をつけて帰宅して、玄関で子どもたちが悲鳴を上げるのを楽しんだりしたな。明日は立春。みなさんの息災を祈ります。
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中村哲医師は、1994年にパキスタンの北東、アフガニスタン国境に近いペシャワールでライ(ハンセン病)の治療を始めた。(差別をなくすために「ハンセン病」と病名を変えることに異論を持っていた中村さんの用語法に従い、以下「ライ」と記す)
「汚い聴診器が一つと、ディスポ(使い捨て)の注射器をなんべんも使っていました」という劣悪な医療現場に中村さんは飛び込み、2千数百人のライ患者を診ることになる。妻と幼い子どもまで連れて、なんでまた、そんなところへ?と多くの人に尋ねられ、また諫められたという。
ライの治療を始めて間もなく、中村さんは、街中の靴屋でたくさんのサンダルを買い集める。なぜか。
ライの治療を終えて退院した患者が、また病院に戻ってくるケースが相次いだ。合併症「足底潰瘍」が問題だった。ライは抹消神経をマヒさせるので、足の裏に傷ができても気づかず、症状を悪化させていたのだ。入退院を繰り返せば、患者にも家族にも大きな負担をかける。患者が村から追われたり、離婚される人までいた。
そこで中村さんは、さまざまなサンダルを買い集めて、自ら構造や材質を調べ、患者一人ひとりの足の形状にあった、傷のつきにくい履物の開発にとりかかったのだ。そしてついには、中村さんが街でリクルートしてきた履物職人を含む3人のスタッフで、病院内にサンダル工房を開設するにいたる。
以下、中村さんが書き送った当時の通信より。
「当初私の頭の中にあったのは、要するに困った患者を診てあげたいという単純なものでした。しかし、しばらく居るうちに、ひどくなった患者を病院で待っているだけでは、だめだということがわかってきました。例えば、ライのやっかいな合併症に足底潰瘍というのがあります。これは、ライの患者では手や足の感覚がなくなるために痛みを感ぜず、足のうらに無理な力がかかってもそのままで、足のうらに傷ができ、そこから感染したりして、だんだん足が歪んだり、なくなってきたりするのです。これは、入院させて安静にさせておき、ひどいものには抗生物質を与えておけば治るのですが、たいていの場合は再び同じ状態で数ヶ月後に戻ってきます。このような状態では、とくに一家を支える主が患者の場合、家族にとっては大変な負担になるし、われわれにとっても湯水のように高価な薬や包帯を際限もなく使わせることになります。このいたちごっこを断つためには、潰瘍のできにくいような靴を患者たちに配布することから始めなければなりません。つまり、病院にたてこもってじっと待っていたのでは駄目で、予防や教育のために外にうってでなくてはなりません。患者の社会生活が保障できるよう、様々の工夫が要求されます。乞食根性を失くして、自活の道を開いてあげることもしなくてはなりません。」(ペシャワール通信(4)より)
中村さんは、医師として患者の病気を治すだけで「おしまい」とは思っていない。患者をまるごと一人の人とみて、退院したあとの患者の人生にも思いをいたしていた。のちに病院の「外にうってでて」用水路作り、さらには「三度三度メシの食える」農村づくりへと突き進んでいく萌芽がここに見られると思う。
中村さんは、赴任4か月の1984年9月にこう書いている。
「群をなしてやってくる難民たちや、社会的偏見の重圧下で生きているらい患者たちを診ていると、まだまだ私たちの力というよりも努力が足りないような気さえしてきます。怪我を治してもらって喜んでジハード(聖戦)に帰ってゆくアフガン人の背中を複雑な気持ちで見送ったり、次々に下痢で死んでゆく乳児たちと母親の悲しみにもらい泣きしたりすることもあります。「病気」として現れる人間の不幸が、わが同胞たちの不幸の全体の、ごく一部にすぎないというのが私の実感です。」(ペシャワール通信(2)より)
患者は「わが同胞」であり、その病気は人間の不幸の一部にすぎない。
とすれば、中村さんにとって医業は身体の治療にとどまらない。
こうした中村さんの思想は、いかにして形作られたものなのか。
中村さんは傾倒する思想家の一人にビクトール・フランクルを挙げている。
ユダヤ人としてアウシュビッツはじめ4つの強制収容所に入れられ、解放後、体験にもとづき、極限に置かれた人間の実態と心のありようを『夜と霧』(原題は、一心理学者の強制収容所体験)という本にまとめた精神科の医師である。
ともに医師で、中村さんもフランクルと同じく、精神科医としてキャリアを始めている。だから、医師としての心構えなどについては、かなり深い影響を受けているのではないかと推測した。だが、なかなか「線」がつながらない。
最近、中村さんの言葉を読み直しているうち、人生への向き合い方という実存的なところで通じ合うものがありそうだと思うようになった。
中村さんは言う。
「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。」
フランクルは言う。
「私たちは生きる意味を問うてはならないのです」
では、どう生きればよいと二人は説くのか。
(つづく)