原発とジャングル1

 きのうは端午の節句

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 入院中の母を見舞いに行く途中、小金井公園を通ったら大賑わいだった。私も子どもが小さい時、ここで自転車乗りの練習をしたので、懐かしく家族連れをながめた。夜、節句の縁起物、菖蒲を風呂に浮かべてはいる。

 もう夏のはじまり、立夏だ。

 6日から初候の「蛙始鳴」(かわず、はじめてなく)。11日からが次候「蚯蚓出」(みみず、いずる)。16日から末候「竹笋生」(たけのこ、しょうず)。

 長野県上田市の友人、桂木さんから、キジの写真が送られてきた。先日一晩お世話になったとき、近所でケーンと高い鳴き声のするのを私も聞いたが、姿は見なかった。きのうは、桂木さんのわずか数メートル先に現れたという。これはオスでカラフルだ。春は繁殖期に入って縄張り宣言のために甲高く鳴くのだという。それで春の季語だそうだ。

    それにしても、キジが近くまで来る家に住めるとは素晴らしい。

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 このところ、渡辺京二さんの話ばかりで読者もうんざりかもしれないが、きょうは彼の「原発とジャングル」(原発とジャングル 晶文社刊に所収)という評論について書きたい。

     人間を幸せにすることに失敗したと渡辺さんが言う「近代」をどう超えるか、という問題を正面から扱っているからだ。

      冒頭、こんな文章で始まる。

 《原発がいやならジャングルへ戻れと、「戦後最大の思想家」は言った。では、ジャングルへ戻ってみよう。》

 「戦後最大の思想家」とは吉本隆明氏のこと。渡辺さんによると、吉本氏は(マルクスと同様に)、経済=物質文明は《人間の意向に左右されぬ自然過程だ、その展開に抵抗するのは夢想家だとニベもなかった。》

 《吉本氏は原発反対運動が大嫌いで、リスクの伴わぬ技術進歩はない、そのリスクを人間は引き受けてゆくべきだと言って、さすがの「戦後最大の思想家」もモウロクしたのではと疑われた。しかし、吉本氏を散々罵った原発反対派は、年間四千人の死者を出しつつ平気でクルマを乗り回している。一体福島原発放射能汚染で何人死んだか。吉本氏の発言は筋の通ったものだった。》

 だから、原発がいやならジャングルへ戻れ、戻りたい人なんていないだろうと、吉本氏は議論を一刀両断にしようとしたわけだ。

 《文明の進歩がいやならジャングルへ戻りなさいというとき、そのジャングルの生活とは野蛮、蒙昧、悲惨の代名詞であるはずである。》

 ところが、実際のジャングルの暮らしは、その先入観を覆すものだったという。渡辺さんはダニエル・L・レヴェレット『ピダハン』(みすず書房)に記された、アマゾン支流マディラ川のほとりに住むピダハンという400人ほどの部族を例に挙げる。

    彼らの生活は川と森に依存している。川での漁と森の採集によって、《一家力を併せて日に2、3時間働けば暮らしてゆける》という。

 さらに「労働」についての考え方が、我々とは全く異なっている。

 《エヴェレットはピダハンが「空腹なのに狩りもせず、鬼ごっこをしたり、わたしの手押し一輪車で遊んだり、寝そべっておしゃべりしたりして過ごす」のが不思議だった。ピダハンの答えはこうだ。「ピダハンは毎日は食べない」。空腹は自分を鍛えるいい方法というのだ。彼らが食べ物は尽きているのに、狩りもせず、三日間踊りあかすのをエヴェレットは見た。これは窮乏ではない。食べたければ漁や狩りをすればよいのだから。つまり食うことは彼らの生活で優先順位の最上位を占めてはいないのだ。それでいて男女とも、痩せてはいても均整がとれた強靭な体格をしている。》

 エヴェレットは言語学者で宣教師でもあった。驚くことに、彼らと接するうち、エヴェレットは信仰を失ってしまったのである。

 救済を必要とする魂の苦しみや不安など、ピダハンの社会には存在しなかった。エヴェレットはこう告白している。

 「わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった」。

 「ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観がひじょうに優れていることの一つの例証足りうるだろう」。

 宣教師に信仰を放棄させるほど、ジャングルの民の暮らしには幸福感がみなぎっていたのである。

(つづく)