ノンジャッジメント(裁かないこと)

takase222014-04-30

ああ、もう月末か。
はやいな。
零細企業の社長が恐いのは・・・「月末」(笑)。
でも、修行のおかげか、だんだん怖くなくなってきた。
いろんなトラブルがきても落ち込まずにすむようになった。

修行のひとつは「裁かない」(ノンジャッジメント)ということ。

私たちは朝起きてから夜寝るまで、物事をいいか悪いか、正しいか間違っているか、好きか嫌いかと価値判断している。
石につまづいて「こんちくしょう!」、満員電車で押してきた隣のヤツは「許せない!」、ホームで100円玉拾って「得した!」・・・
自分の心を観察すると、もっと小さなことでもひっきりなしに価値判断していることが分かる。心に波風を立てるのがこの「裁く」ということである。
「今日、私は起こることを何も裁かない」ととなえて一日を始める。
電車で足を踏まれたら「足を踏まれて痛いな」とだけ思い、価値判断(「このバカ!」)はしない。電話口で罵られても、「相手は怒っているし、罵られている自分の感情は傷ついているな」と観察するけれども、「最低!」とか「もうだめだ」などとは考えない。
ひたすら、起きることをそのままうけいれ、自分の気持ちを観察する。

これを繰りかえすと気持ちの動揺や不安、恐れなどをかなりの程度免れることができる。

そもそも、価値判断の基準は何かというと、正義や友愛などとたてまえの理屈をつけても、実は「わたし」の都合である。
ちょっと自分を振り返ってみれば、分かる。

何かうまくいくと、「オレさまのおかげ」と思い、失敗すればそれは自分以外の人か事情のせいであって、自分はとばっちりを受けた「被害者」だと感じてしまう。
実に身勝手で利己的である。

さらに観察すると、その感性は、「わたし」が個々バラバラの世の中にいるという見方から発している。
自分勝手なバラバラの世界で「自分」にこだわるとどうなるか。
世の中は自分の都合どおりには動いていないから、必ずそこに不条理感が生じる。
なんでオレがこんな目に遭わなければならないんだ?と。
これが仏教でいう「苦」である。

今、数年ぶりに大乗仏教唯識(ゆいしき)の勉強をしている。
「苦」が生じる構造とそこからの解放の道が体系的に説かれてある。
自分だけ学ぶのはもったいないので、このブログで適宜紹介していきたい。
・・・・・・・
今朝は雨もようのどんよりした空だったが、駅への途中、満開のツツジが目の前に現れた。
このツツジと自分はバラバラではなくて「ひとつ」なのだ、と思いながらながめると、心の底のほうからじわじわ元気が湧いてきた。
何が起きても大丈夫だ。