安田純平氏の「さあ、戦場へ行こう!」

 この黒塗りの書類は開示されたTPP関連文書だという。

 TPPについては、話題の山尾議員が追及した。
「TPP交渉の中心人物たる甘利前大臣がこの場にいらっしゃらないのはきわめて残念。加えて事務方トップを担ってきた鶴岡首席交渉官まで、なんと審議入りした今日、駐英大使への転出を閣議決定…どこに丁寧な説明を尽くす姿勢が見えるのですか。」

https://t.co/83p8eYkFjG

 《政府は5日、衆院環太平洋連携協定(TPP)特別委員会の理事懇談会で、甘利明前経済再生担当相と米国のフロマン通商代表による閣僚協議など TPP関連文書を示した。交渉過程の開示を求めていた野党側に応じた形だが、文書は表題を除いて黒く塗りつぶされ、内容は分からない状態だった。》
http://this.kiji.is/90109507954982920

 この政権はとにかく情報を出さない。よくも、こんな全面黒塗りの書類を「公開」できるものだ。いま振り返ると、民主党政権下で公文書公開がずいぶん進んだことがなつかしい。
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 きのう発売のSPA(4月12・19日号)に「安田純平さん拘束事件」の記事が載っていてそこで私も取材された。
 そのとき、安田さんの「さあ戦場へ行こう」という文章を思いながらインタビューに答えていた。
 それは安田さんが構成した藤本敏文『戦場観光〜シリアで一番有名な日本人』(幻冬舎2015)のあとがきだ。ここで安田さんはジャーナリズム論をまとまった形で述べている。
 以前、このブログで、安田さんが「戦場に行くことの意味」として「戦後六十年が過ぎ、戦争を知っている日本人が年々減っていく中で、現場を知る人間が増えることは、空論に踊らないためにも社会にとって有意義だ」(『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』 集英社新書 2010年)と言っていたことを紹介した。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160117 
 「あとがき」はこれをさらに詳しく展開しており、その一部を紹介したい。彼が危険地に行く動機が理解できるし、拘束されることも可能性として考えていたことがうかがえる。

構成者あとがき―さあ戦場へ行こう  

 《・・・外務省の退避勧告を自粛の根拠とするなら、取材できる場所、できない場所が政府の裁量で決められ、それを受け入れるということになってしまう。政府はシリア難民支援を表明しているが、国民がその是非を判断するにはそもそもの原因である内戦の現場の情報も必要だ。「積極的平和主義」を掲げる日本政府が、集団的自衛権によって自衛隊を海外派遣するようになれば、そうした現場には退避勧告が出されるだろうが、現場からの情報なしで派遣の是非、活動内容の評価をできるわけがない。
 「人質になったら国家に影響を及ぼすから自粛すべきだ」と言う人もいるが、2004年のイラク日本人人質事件でも、今回の事件(湯川氏・後藤氏人質事件)でも、そうした影響が具体的にあっただろうか。もし事件をきっかけに政策を変えれば、あらゆる政策に対して人質をとって変更を迫る事件が発生する恐れがあるため、慎重に判断すべきだ。しかし、民意と政治によってあえてそれを選ぶならば、その責任は国民にあると考えるべきだろう。
 我々に必要なのは、危険だ、危険だとただ恐れて政府の勧告に従うことでも自粛することでもなく、具体的な情報をもとに自らの頭で判断することだ。恐怖によって政治的な要求を通す行為が「テロ」であるならば、そうした感情に流されず、冷静に、具体的に、論理的に考えることこそが最大の抵抗である。本来ならば政府はそうした情報を提供すべきだし、政府とは違う立場で知らせるのがジャーナリストの役割だ。
 戦争の現場に行けば死傷する可能性はあるし、拘束されるのは日常茶飯事で、人質になることもある。そうした場合に日本政府ができることはほとんどない。今回も、「直接交渉はしないし、身代金も払わない」と外務省が後藤さんの家族に早々に告げている。自分の判断力や人脈が頼りであるからこそ魅力のある現場なのだが、最悪の結果を迎える場合もあることは留意しておかなければならない。それを踏まえて判断するためにも、恐怖を煽るのではなく具体的な判断材料が広く提供されるべきだ。
 本来、現場に行ったほうがよいのはジャーナリストだけではない。戦争の現実は、あらゆる職業や立場の人々がそれぞれの専門知識や興味・関心をもとに現場を観察し、文章や映像や、絵や小説などあらゆる方法で表現することで、ようやく立体的なものとなって見えてくる。ジャーナリストにはジャーナリストとしての視点や分析、表現方法があればよいだけのことだ。
 普段の日本の日常は、無数の人々によって特にネットを通して様々に表現されている。戦争の現場ではそうした日常が壊れていく中で、それでも人々は生き、死んでいく。その戦争の何たるかを描くには、普段の日本と同じように無数の視点と表現方法があったほうがよいに決まっている。藤本さんのように生情報のままでも、価値が認められればこうして書籍にもあるし、テレビでも紹介される。その情報を活用できるかどうかは受け手側の力量次第だ。
 だから戦場に行く目的が旅行であっても一向に構わないと私は思っている。そこで見た現実に、それぞれのやり方で真摯に向き合えば十分だ。現地の情報が伝わることこそが大事であって、その人が立派な人柄である必要も、子ども好きである必要もない。
 ネットの普及によって、戦場から現地の人が流す無数の映像や写真、文字情報を日本にいても見ることができるようになった。しかし、流れてくるのは彼らが流したいことだけだし、現地の人では気づかないこともある。ネットを見ていれば分かることは多いが、現場に行かなければ分からないことも無数にある。
 現場に入れなかった、という話も具体的であれば貴重だ。安全対策を考えるうえではむしろ参考になる。成功した取材による情報だけが価値を持つわけではない。いずれにしろ、挑戦しようとする人間がいるからこそもたらされるのが情報なのだ・・・・。》

 そして安田さんはあとがきをこう締めている。
 《だからあえて言う。さあ、戦場へ行こう!》
(つづく)