父の死

昨夜、父が老衰で亡くなった。
88歳の大往生だった。
三年近く入院中だったが、今月になってほとんど食べなくなり、弱ってきていたので、冬は越せないかなと家族で話していた。きのうの夜、看護師が見回ったら、すでに息をしていなかったという。
ちょうど亡くなったと思われるころ、駅からの帰り道、今夜は月がやけにきれいだなと、空を見上げながら歩いていた。
静かな秋の夜に、おだやかに逝ったわけだ。
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今年4月、食が細くなり、目に見えて痩せてきた父に、「胃ろうしますか」と聞いた。普段は、こちらの言うことにあまり反応しない父が、しっかり首を振って「いや」と言った。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20120413
そこで、余計な延命はやめ、なりゆきにまかせた。結果、自然に弱っていき、いつのまにかすうっと逝った。これでよかったのだと思う。
大正13年生まれ。酒も煙草もギャンブルもやらず、趣味らしいものは何もない父だった。私が小さかったころ、夜遅く仕事を終えた父は、子どもたちが寝ているところに行って、寝顔をながめるのが楽しみだったと、あとで母に聞いた。この年代らしい「不器用な」生き方をした人だったと思う。
勝手なことをやり、会社がうまくいかないと借金までした私をどう思っていたか分からないが、亡くなった父の耳元で、「おとうさん、ありがとう」と声をかけた。『バルド・トドゥル』(チベット死者の書)によれば、死んでも聞えたはずだ。
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すでにお父さんを亡くした女性から、こんなメールをいただいた。
子どもは、父を失って初めてその人生を知るのだと、20年前に父が急逝したときに思い知りました。私は父の人生について、ほとんど何も知らなかったのだと。葬儀の過程で、また1周忌や親族の集まりで、若かったころの父の話しを聞いてなつかしみ、思いがけない友人からのお手紙に意外な面を知り、いまも亡くなった父のことを折に触れて思い出しています。生きていたときよりもずっとずっと、思いは近くにあるように感じます。不思議ですが、そういうものなのかもしれませんね
喪に服すというのは、こういうことのためにあるのかもしれない。