父は「日本一のヤブ医者」だった

takase222012-10-29

きょう、山形の田舎で父の葬儀を執り行い、お墓に納骨してきた。(写真はきょうの葬儀場)
30年ぶりで会う親戚と昔話で盛り上がったり、孫たち(私たち兄弟の子供たち)が従兄弟と久しぶりで会って親しくなったりと、親族の葬儀は、生きているものにとっては、新たな付き合いのはじまりでもあるようだ。
先週、私の知人、友人に「父死去のお知らせ」というメールを送った。お通夜や葬儀は、ごく内輪でやったのだが、これで父ともお別れとなると、多少の感慨もあり、ご迷惑かもしれないが、お世話になった方々に父の人となりをお知らせし、手向けとしたいと思ったのだった。
その文章に少し補足して以下に紹介したい。


いつもお世話になっているみなさまへ。
秋らしいすがすがしい季節になりましたが、お元気でしょうか。
先日21日(日)の夜、父、高世正弘が亡くなりました。
私事ですが、お世話になっているみなさまにはお知らせをと思いご連絡する次第です。
父、正弘は、大正13年1924年)生まれで88歳。大往生と言えるでしょう。10年以上前から脳の出血を繰り返し、精神的にも肉体的にも自立して暮せなくなり、次男(私の弟)が勤務する東京の病院の介護型療養病床に2年以上入院していました。次第に歩行が困難になり食が細くなり、弱っていきましたが、本人が求めなかったので胃ろうなどの延命措置はしませんでした。10月に入ってからはほとんど食事をとらなくなって、どんどん痩せていき、そのまますうっと亡くなりました。21日の夜9時ごろ、看護婦さんが見回ったら、もう息絶えていたそうです。余計な苦しみはなかったようで、これでよかったのだろうと家族は思っています。
父は、山形県南部、現在の南陽市の田舎に生れ、そこでながく開業医をしていました。高世の家は代々医者で、父で6代目です。私も卒業した漆山小学校の校医を40年近くつとめ、73歳で引退するまで「高世医院」の看板をあげて診療を続けました。私の小さいころは茅葺きの家で、玄関は一つ。ガラガラと引き戸があくと玄関に患者さんがいます。家族が出て行き玄関脇にある待合室に案内します。待合室は退屈だからと直接に茶の間に来て、私たち家族と一緒にお茶を飲みながら順番を待つ患者さんもよくいました。
母は看護師の免許もないのに、薬を調合し、注射まで打っていました。実地訓練で腕を上げたのでしょう、患者さんからは「奥さんの方が注射はうまい」などとほめられていました。今こんなことをしたら大問題ですが、当時の田舎医者は、どこもそんなものでした。
のんびりとした話の一方で、田舎医者の苦労もありました。私の育った漆山というところは、置賜盆地のはずれで後ろに広大な山地が広がり、小学校には分校が二つありました。山奥のその集落には炭焼きを業とする人が住んでいました。冬の流感の時期には、その集落からも往診の依頼が来ます。そんなところから往診を依頼してくるということは、相当重篤な症状に違いなく、他に医者がいない以上、断わることはできません。
冬の山道は、もちろん車など通れません(なにより車自体がない時代です)。夜中、カンジキをはき、診療カバンを提げ、懐中電灯一つで、深い雪を掻き分けるようにして何キロも山を登っていったのでしょう。冬はほとんど雪か曇りでめったに月は出ませんから、真っ暗な山道はさぞ心細かっただろうと想像します。往診から帰るころは、すっかり朝になっており、すぐに外来が始まります。父はアカギレ性で、寝不足が続くとてきめんに指先が割れ、小さく切った絆創膏がずべての指に貼ってありました。
それでも愚痴や不満はほとんどもらすことなく、たまに「医者は大変だから、ならないほうがいいぞ」と笑って言うくらいでした。地域医療の任務はどうだとか大上段の理屈を言うことも一切なく、たんたんと与えられた仕事として医業に向き合っていたように思います。自慢したり、自分をアピールする言葉を聞いたことがなく、周りが呆れるほど卑下するばかりでした。口癖は「私は日本一のヤブ医者です」というものでした。戦争中、軍医を促成で養成する課程で医師の免許を取ったことに多少劣等感があったのかもしれません。
酒も煙草もやらず、親しい友達もなく、どうやって気晴らしをしているんだろうと子供心に不思議でした。外に出歩くことは嫌いで、父に泊りがけの旅行に連れて行ってもらったことは一度もありません。唯一父と出かけた思い出は、近くの鳩峰高原に行って弁当を食べたことで、アルバムに写真があります。もちろん日帰りでした。これといった趣味もない父でしたが、私が小さい頃はマミヤの上から覗く写真機でよく写真を撮っていました。突然スライド映写機を買ってきて、部屋の電気を消して自分が撮った写真を家族を集めて「上映」したことがあります。ただ、趣味のない父のこと、そこに映されたのは、父の唯一の被写体である私たち子どもの日常だけでした。往診から夜遅く帰ると、私と妹が寝ている部屋に入って、私たちの寝顔を嬉しそうに眺めていたと、後に母に聞きました。子どもが大きくなるのを見るのが唯一の楽しみだったのでしょう。
海外には一度も行ったことがありませんが、足腰が立たなくなり、ボケがはいってから、何を思ったか「ハワイに行きたい」などとつぶやいていました。それを知った孫たちが、火葬場でお骨を拾うとき、自分がハワイに行くことがあれば散骨してあげようと、ハンカチに少しお骨を分けてもらっていました。
非常に不器用な生き方だったと思いますが、父の世代にはこういう人がたくさんいたように思います。そしてこういう私たちの先達が、この日本をつくってきたのか、という感慨を覚えるこのごろです。
子どもとしてはほんとうに可愛がってもらったと思います。父に、こうしろ、ああしろと言われることもなく、私は勝手な道を歩かせてもらいました。それどころか、取材費が足りない、会社の資金繰りがあぶないと言っては、父に借金を頼み込んだり、さんざん迷惑をかけてきました。
父に対しては感謝の気持しかありません。
なお、21日に父が亡くなった後、東京で、23日にお通夜、24日に告別、火葬を内輪で執り行いました。お骨は来週月曜に田舎に持っていき、お墓に納めてきます。派手なことの苦手な父でしたので、お香典などのご配慮はなさらぬようお願いいたします。
父と別れるにあたり、父の思い出話を書かせていただきました。口下手で自分のことを語ることが苦手だった父も、不肖の息子が書いた文章をみなさんにご笑覧いただければうれしく思うことでしょう。
寒い朝夕ですが、お体にお気をつけてお過ごしください。