「人口論」で知られるマルサスは、餓死を引き起こすのは食糧の需要と全体的な食糧供給との間のギャップだと論じたとされる。
これに対し、前回紹介したセン博士は、飢餓が広がる一方で一部の者はかえって豊かになったりすることを、個々人や所属集団の食糧へのアクセスを「エンタイトルメント」という説得力ある概念で分析した。いまこの理論は世界で広く支持されるようになっている。
北朝鮮の飢餓、食糧危機について本格的に分析した本が出ている。
邦訳されて入手できるものとして、アンドリュー・ナチオス『北朝鮮 飢餓の真実』(扶桑社、2002)とハガード/ノーランド『北朝鮮 飢餓の政治経済学』(中央公論新社、2009)という2冊の大著がある。
興味深いのは、両者ともに、セン博士の理論を下敷きにしていることだ。後者では、セン博士が序文まで書いている。
最初の本の著者、ナチオス氏は、国際NGO「ワールド・ビジョン」の副会長として北朝鮮の飢餓救済にあたり、後にブッシュ政権の国際開発局(USAID)局長をつとめた。彼は、北朝鮮の飢餓の最大の原因を政治体制システムに求め、?1930年代のソビエト・ウクライナ、?「大躍進」時(50年代末)の中国、?ポルポト時代(70年代後半)のカンボジア、?80年代中ごろのエチオピアにつづく、史上5番目の「20世紀における全体主義飢饉」の事例として位置づける。
二番目の本『飢餓の政治経済学』の著者ハガードとノーランドはアメリカの研究者だ。彼らも飢餓の原因については、膨大な資料を駆使したうえで、「自然災害ではなく、複雑な人災であるとみなすべきだ」(P13)と主張する。
ただし、具体的な分析結果については、相当の違いを見ることができる。
まず、飢餓による死亡者の数だが、ナチオスはおよそ250万人と推定。これに対して、後者の本では、60〜100万人と少なめだ。
また、ナチオスは状況を悪化させた要因として、食糧配給に政治的な地域別優先順位をつけたことをあげる。つまり一部の住民の「切り捨て」が行われたと主張する。
これについては、ハガードとノーランドは「ほとんどの証拠は間接的なものにすぎない」(P99)と否定的である。
萩原遼氏は『拉致と核と餓死の国・北朝鮮』という本で、金正日は意図的に仕組んで350万人を大量殺戮したと主張する。
もし、このような「意図」が証明されれば、「北朝鮮体制に対する(国際法上の)起訴・告発も可能になる」(ハガード/ノーランド)。
きわめて重要な論点であり、さらなる研究を期待したい。
二つの本は、さまざまな相違点がありながら、北朝鮮が改革・開放に向かうことにしか解決策はないという結論において共通している。
セン博士は、ハガードらの本の序文にこう書いている。
「飢餓は経済の機能不全、社会組織の崩壊、政治的権威主義の蔓延とつながりがあり、その原因を突き止め、変えていかないかぎり、将来にわたって、あらゆるところに犠牲者を生みだすだろう」。
(つづく)