覚りへの道14-超越欲求1

takase222009-05-02

写真は小さな川沿いに群生するムラサキハナナ(紫花菜)。
この花、よく見かけるのに、子どものころに見た覚えがないように感じていた。それもそのはず、『雑草ノオト』には「戦後急速に野生化したのは事実で、特に東京を中心として広がったようだ」と書いてある。「戦争で中国に行っていた人が、この種子を戦後持ち帰り、これが急速に野生化したという説もある」そうだ。雑草にもそれぞれ歴史があるものだ。

人はなぜ覚りを求めるのか。あらためて考えると不思議な気がする。
生きていく苦しみから何とか逃れたい、解放されたいと思うからだろうか。あるいは、「真理に誘惑される」(キルケゴール)のだろうか。
心理学的にこれを裏づけようとした人がいる。欲求段階説で知られるアブラハム・マズローだ。
彼はアメリカ心理学会の会長までつとめ、数年前には欲求段階説大学入試センター試験の「現代社会」に出題されたそうで、広く認知されるようになってきたようだ。
マズローは、1943年に出た"A Theory of Human Motivation"(人間のモチベーションの理論)で、人間の欲求はピラミッドのようにヒエラルヒー階層をなしていると主張した。食べ物や水などを求める最も基本的な「生理的欲求」からはじまって、「安全の欲求」、「愛(と所属)の欲求」、「承認の欲求」、「自己実現の欲求」へと欲求を高度化していく。
「パンが全くないときには、人はパンのみにて生きる。その通りだ。だが、パンがたくさんあって、生理的に腹いっぱいになると何が起きるか?すぐさま、別の(そして「より高い」)欲求が出てきて、生理的な空腹に取って代わるのだ。そして、今度それが満足させられると、また新たな(そしてさらに「より高い」)欲求が登場する」(高世訳)
彼は本のなかで、「人間は永久に欲求し続ける動物だ」“man is a perpetually wanting animal”と言っている。しかし、彼はこれを否定的な意味で言うのではない。当面する段階の欲求を適切に満足させ、次の段階に進んでいくことが、人間をより精神的に健康にするというのだ。
例えば、子どもが一定の年齢になると、親や家族が疎ましくなる。それは「愛(と所属)の欲求」がすでに満たされており、次の段階の「承認」つまり他の「社会」から認められたいという欲求に移行しているからだと考えられる。親にほめられてもうれしくないのに、悪さをして仲間から「おまえ、すげえな」と認められるのが励みになったりするのである。これが「反抗期」の構造である。
また、脱北者が日本で仕事が見つからない、友だちが出来ないと悩むのに対して、飢餓の国から来たんだから毎日三食食えるだけで幸せと思え、と批判するのは人間の本性を見誤っている。マズロー風に言えば、彼らは日本にきて飢えや命の危険から逃れた段階で、別の高次の欲求が芽生えているのだ。ここを分ってやれるかどうかが、生活保護行政を担当するお役所にも問われるのである。
マズローがユニークなのは、それまでの心理学が、精神を病んだ人を研究対象にしたのに対して、精神が高度に健康な人、最高の人格に到達した人々を調査・研究し、「自己実現的人間」(健康人)の特徴を抽出した。つまり、マイナスの方向ではなくて、プラスの方への発達を研究したのだ。その研究対象リストのなかには、禅の鈴木大拙博士も入っていたという。直接に面接してインタビューしたのだろうか。
マズローが挙げる「自己実現的人間」の特徴は、例えばこうだ。
「現実をより有効に知覚し、それと快適な関係を保っている」
「自己、他者、自然に対する受容的態度」
「自発的な行動」
「孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然としている」
「文化や環境からの自律性」
「人生の基本的に必要なことを繰り返し新鮮に、無邪気に、畏敬や喜びをもって味わうことができる」
「共同社会感情」(人類に対して、ときどき怒ったり、いら立ったり、いや気がさしたりするにもかかわらず、同一視や同情や愛情をもっている)
「深い対人関係」
「民主的な性格構造」
「哲学的で悪意のないユーモアのセンス」
「創造性」
「確固とした価値体系」
「利己的であることと利己的でないということとの二分性はなくなる」
私が知っている、尊敬すべき(ごく少数の)人々に当てはまるなあ、こんな人格者になりたいものだと思いながら読んでいくと、「おや」と思う特徴が出てきた。
「しばしば《神秘体験》をしている・・・」
これはいったい何だ?(つづく)
(参考:岡野守也トランスパーソナル心理学』)