はじめてフィリピンの密造拳銃の取材をしたのは84年だった。この年、日本への史上最大の拳銃密輸事件が摘発された。
《東京の暴力団員らが貨物船のコンテナに二百五十五丁もの短銃と実弾約三千発を隠してフィリピンから密輸入しようとしたところを警視庁保安一課と東京税関が見破り、十一日、五人を銃刀法違反などで逮捕、短銃などを押収した。本物の短銃が一度にこれほど大量に摘発されたのは全国でも例がない》(朝日新聞84年4月12日)
コンテナには、さらに四十六丁の拳銃が隠されていたのを警察は後になって発見し、押収総数は、《短銃が計三百一丁、実弾が計五千五百六十四発》(5月1日付)となった。
回転式も自動式もあり、22口径から45口径までいろいろあったが、《大部分はS&W(スミスアンドウェッソン)などの米国製で、銃身の刻印からみて、米軍から流出したものとみられる》とはじめの4月12日の記事は書いている。ところが、一ヶ月以上たってこれらは多くが密造だったことが判明した。
《押収された短銃はS&W22口径、同38口径、コルト22口径、ルガー38口径など約十種。中には米軍の刻印が入ったものもあり、ほとんどが米国製とみられていた。ところが、鑑定の結果、それらの多くは本物をまねた「海賊版」とわかった》(5月23日付)
拳銃を送り出したフィリピン在住の人物Kは逮捕され、マニラの入管留置所に勾留されて日本への強制出国を待っていた。その留置所内でKをインタビューせよというのが、当時カメラマンだった私に与えられた任務だった。突撃取材である。フィリピンの官憲は緩いから、しかるべき方法を使えば刑務所内でもカメラを持ちこめる。
ビデオを回しながら入っていった。廊下の両側に鉄格子の留置房が並んでいる。廊下に一人の男がいた。男はこちらを向くや、恐ろしい形相で迫ってきた。ファインダーの中に男が大写しになり、何か叫ぶと右手を振り下ろした。脳天に衝撃が走り、カメラが揺れた。男はK自身だったのだ。
Kは私に気づき、攻撃してきたのである。Kはそのまま、すたすた自分の留置房に入っていって、鉄格子をバーンと閉めた。私はその一連のシーンを最後まで録画してから外に出た。
私が断りなしに撮影しはじめたのがまずかった。まさか、Kが自分で留置房を出たり入ったりできる「自由」な身分だったとは・・。留置所の職員を買収できるなどというからくりを知らなかった。
「血だらけですよ」と助手が言う。気がつくと頭から血がたらたら流れている。Kは自分の房の錠前で私を殴ったのだった。鉄でできた重い錠前だから、怪我するのは当たり前だ。そばで、東京から来た番組ディレクターが蒼い顔をして呆然と立っていた。責任を感じたのだろう。実は、ディレクターはちょっと油断していた。というのはこのKは、なんと、番組を放送しているテレビ局の、フィリピンでの取材コーディネーターをしていたのだ。だからテレビ取材にはフレンドリーな対応をしてくれると思っていたらしい。
カメラがどんどん留置所に入っていって密輸容疑者に殴られる映像は迫力満点で、2週にわたって使われた。とくにKが攻撃してきてカメラがガクンと揺れるところは繰り返し流された。今なら「史上最大の拳銃密輸犯を獄中で潜入激撮!!決死取材でカメラマン流血!」とでも番組タイトルがつきそうだ。
もし私が「危険な取材を指示されたので怪我した」と訴えたら大変なスキャンダルになる。だから、放送終了後、東京で私のために慰労会が開かれた。プロデューサーが猫なで声で「ごくろうさん」と言ってウィスキーを一瓶くれた。あとで同僚と、「怪我すると酒がもらえるんだ」と大笑いした。
今回の取材で、84年の事件でKの共犯だった日本人Jにマニラで接触し、インタビューすることができた。Jは日本で8年服役したあと、マニラに戻って暮している。Jによれば、当時密輸した数は三百丁どころではなかったという。摘発前に何度も密輸を成功させており、合計千丁になるそうだ。密造拳銃はやはりダナオで買い付けたという。
私を殴った密輸犯Kも刑期を終えて、今はマニラでレストランを経営しているという。いつか会う機会があって「あなたのおかげでウィスキーをもらったんですよ」と言ったら、どんな顔をするだろうか。
今となっては懐かしい思い出である。