マニラで会ったヤバイ人たち

 オフィスの近くでも街路樹が紅葉している。どこかの公園に紅葉狩りに行きたい。秋深し。
  もう年末も近い。月日の経つのははやいなと思いながら、来年の手帖を買った。
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 先日、フィリピンでの邦人カメラマン、石川重弘さん拘束事件のことを書きながら、当時のことを思い出していた。で、きょうちょっと昔話を。
takase.hatenablog.jp

 1986年3月、石川さんが解放され、マニラの日本大使館で会見が行われた。マルコス政権が倒された「2月革命」直後の、まだ高揚感ただよう時期で日本人の記者も多くマニラに残っていた。会見が始まって間もなく、「会長から電話です」と石川さんに受話器が手渡された。石川さんは「ありがとうございます」と泣きながら感謝の言葉を述べる。電話の相手の「会長」とは、笹川良一氏(日本船舶振興会会長)。会見時間に合わせて笹川氏との電話をセットする、見え見えの演出に鼻白んだ覚えがある。
 解放の功労者として表に立ったのは笹川氏だったが、実際に交渉に当たったのは、元山口組の大幹部、黒澤明氏と民族派右翼の野村秋介氏、弁護士の遠藤誠氏とされる。(石川重弘君を救う会会長は遠藤氏)
 マニラの歓楽街、マビニ通りにアンバサダーホテルという中級クラスのホテルがあり、そのそばの日本料理屋によく通っていた。そこで野村氏を見かけたのは、今から考えると「2月革命」の前後だったのか。いったい何をしにマニラに来ているのかと不思議に思っていた。
 黒澤明氏は事件解決後もしばしばマニラでみかけた。日本料理屋の隣の喫茶店で知り合い、一緒に夜の街にくり出したこともあった。元組長というから怖い人かと思ったら、腰の低い温厚なおじさんじゃないか。楽しく飲んで、なんで組長を辞めちゃったんですかと聞いたりした。答えは「山口組の四代目になれないことが分かったから」だった。そんなにトップになりたいんですかと続けて聞くと、「そりゃあ、なりたかった」と即座に答えたのが印象に残っている。
 後で知ったが、黒澤氏は、かつて山口組の殺しの軍団と言われた柳川組の幹部で、対立する組に猛攻を加えてねじ伏せ10年以上服役。ここから頭角をあらわし、出所後、山口組三代目の田岡組長の懐刀として「沖縄ヤクザの和平交渉に乗り出し、旭琉会と山口組系組織の縁組を取り持った。また静岡の美尾組を黒澤組傘下に加えるなど、東海や関東方面の系列化に貢献した。その手腕から「山口組キッシンジャー」と呼ばれた」そうだ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%8B%E4%BC%9A
 また、84年、85年の「グリコ・森永事件」黒幕説がある。事件最大の捜査と言われる「B作戦」は、黒澤氏の黒(ブラック)から命名されたという。
 事件が起きたのは、ちょうど黒澤氏がヤクザを引退する頃。黒幕説の根拠は、黒澤氏がグリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去があること。黒澤氏の銀行口座に被害企業の関係者から3億円の入金があったこと。犯行に使われたのと同種の和文タイプライターや、タクシー払い下げ車輌を親族が所有していることだったという。
 黒澤氏は、ただの温厚なおじさんではなく、相当にヤバイ人だったのだ。まさか、クリコ・森永事件がらみのお金が、石川カメラマンの解放で使われたのではないだろうな、と後で疑ったりした。
 マニラのネオン街、マビニ通りに「セブンスター」という美形のホステスがそろったクラブがあって、黒澤氏と入ると、クラブのオーナーの青山氏が「会長、いらっしゃい」とカウンタの一番奥の席に導くのだった。そこは黒澤氏しか座れない「指定席」だ。青山氏も元ヤクザ。「北陸戦争」で鳴らしたという触れ込みだった。裏社会の事件などの取材でインタビューしたこともあるが、撮影中、詰めた小指が映るようにテーブルの上に手を置くのがおかしかった。
 当時フィリピンにはツーリストとしてもたくさんのヤクザが来ていた。警察に「お小遣い」をやって、ヤクザご一行様が、空港からパトカーの先導でホテルに乗りつける光景も珍しくなかった。彼らの旅行日程には、警察、軍の射撃練習場での拳銃や自動小銃の試し撃ちが必ず組み込まれていた。
 ヤクザのフィリピン旅行の目的の一つが、銃器の調達だった。銃の密造・密輸は、偽札、人身売買とともに、裏社会取材では私が最も熱心に追いかけたテーマで、かなりしつこく取材した。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080314
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080315

 マニラには、ヤクザでなくとも、「訳あり」の日本人がたくさん滞在していた。飲み屋でたまたま隣り合わせた人から「事情があって日本には戻れないんですよ」と告白されたこともあった。フィリピン人は、出身や素性を詮索せずに誰でも仲間として受け入れてくれる。これがフィリピーノ・ホスピタリティというやつで、夜逃げした人だろうが犯罪者だろうが、親しくなれば身内のように扱ってくれる。フィリピン人のそんなところを私は好ましく思っていた。
 フィリピン滞在時代は、日本では会えないようなバラエテイ豊かな日本人たちに接することができたが、そこにはフィリピン社会の大きな包容力も与っていたのだろうと懐かしく思いだしている。