アキノ元大統領が死去

takase222009-08-03

フィリピンのアキノ元大統領が死亡した。
《結腸がんで闘病中のフィリピンのコラソン・アキノ元大統領が1日早朝、マニラ首都圏マカティ市の病院で死亡した。76歳だった。「ピープルパワー」と呼ばれる民衆の力で86年2月、20年以上続いたマルコス独裁政権を倒して大統領に就任。ミャンマー(88年)や冷戦崩壊後の東欧の民主化運動に影響を与えた。退任後も常に民衆の側に身を置き、反政府の運動に参加するなどシンボル的存在だった。
 裕福な政治家の家庭に生まれ、米国の大学を卒業。54年にベニグノ・アキノ上院議員と結婚した。反マルコスを掲げていた夫が83年8月、亡命先の米国から帰国直後に空港で暗殺されたのを機に、普通の主婦から政治の場に担ぎ出された。

 86年2月の大統領選は、カトリック司教協議会の支援を受けたアキノ氏と現職のマルコス氏が立候補し、選管と民間の選挙監視団体が別々の結果を発表。マルコス政権に反発した国軍幹部が決起し、民衆も巻き込んだ「ピープルパワー」が起きて、アキノ氏が第11代大統領に就任した。
 6年間の在任期間中、新憲法制定など民主化に取り組んだが、強固な政治基盤を築けず、任期中に7度もクーデター未遂が起き、軍の発言力が高まった。農地改革なども不徹底で不評を買った。》(毎日新聞
先週フィリピン取材をしてきたジン・ネットのスタッフによれば、マニラ市のいたるところにアキノ氏の回復を祈る黄色いリボンであふれていたという。86年の「2月革命」は、彼女のシンボルカラーからイエローレボリューションともいわれ、デモともなれば通りが黄色一色に染まるほどだった。

私は83年のアキノ上院議員暗殺からフィリピンを取材するようになった。そして86年はじめから88年後半までマニラに常駐した。
2月革命、相次ぐクーデター事件、若王子さん誘拐事件、日本人保険金殺人、ジャパゆきさん問題、共産ゲリラやイスラムゲリラの支配地潜入、日本への拳銃密輸、残留日系人日本兵の墓地さがし・・・と夢中で駆け回った日々がなつかしい。
アキノ氏の大統領選挙戦の最終演説を取材したときのこと。彼女はこんな意味のことを「ただの主婦」らしく、とつとつと語った。
《フィリピンを良い国にするのは簡単ではありません。国民にも我慢してもらうことになるでしょう。しかし、私はみなさんよりも大きな犠牲を払うことを約束します》
日本よりもはるかにダーティで口八丁の政治家が多いフィリピンで、国民一人ひとりに語りかけるような彼女の誠実な訴えはとても新鮮だった。国中にはびこる不正と腐敗のなかに生きる、明日の食べ物もなく祈るしかない人々を思い、カメラのファインダーをのぞきながら、涙が出てきたことを覚えている。
大地主出身で改革などできるはずがないと思ったし、外国人記者としては客観的に報じなくてはならないのは分っていたが、演説を聴きながら「ああ、この人に勝たせたいな」と心から思った。
結局、彼女は「偉大な大統領」にはなれず、今もフィリピンは問題が山積みだ。あのときの私のアキノ氏への期待は間違っていたのだろうかと後でふり返ることがあった。
たぶん私には、フィリピンへの思い入れが生まれていたのだろう。そして、この国が少しでも良くなってほしいと他人事ではなく願ったのだろう。あれはあれでよかったのではないかと今は思っている。