荒井秘書官のオフレコ発言を記事化した毎日新聞

 NATO北大西洋条約機構)のストルテンベルグ事務総長が来日し、岸田総理と会談した。

日テレニュースより

 日本はNATOに独立した代表部を設置し、理事会会合などに定期的に参加する意向を示し、協力関係をいっそう強めることを確認したという。岸田首相、ためらいなく、どんどん危ない方向に突っ込んでいく。

 ストルテンベルグ氏は、日本の前に韓国を訪問し、ウクライナへの軍事支援を要請している。 
 なんで?と疑問に思ったが、このニュースで、韓国が武器輸出大国になっていた事実を知った。

NHK国際報道より

 韓国は過去5年の実績で輸出額世界第8位。兵器開発で定評のあるイスラエル(10位)より上だ。この一年でみると、韓国がもっとも輸出増加の上昇率が高いという。

ポーランドの港に陸揚げされた韓国製兵器。(国際報道より)

 先月、ポーランドの港に韓国製の戦車や自走砲などが陸揚げされた。このところ、ポーランドは韓国製兵器を“爆買い”しているという。内訳は戦車980両、自走砲648門、戦闘機48機、総額1兆円にのぼる。

 ポーランドウクライナに大量の兵器を供与しており、足りなくなった自国分を埋め合わせるために韓国製兵器を大量に買いつけているのだという。
 ポーランドが、ドイツ製戦車の「レオパルト2」をウクライナに供与することに注目が集まっているが、これは韓国製戦車を購入することで可能になっているわけだ。

 さらに、アメリカは韓国から弾薬を買ってウクライナに送っているとも言われている。

 こうなるとNATOとしては、韓国も儲けてばかりいないで、ウクライナに兵器をタダで供与しろよ、となるのは当然だ。韓国にウクライナへの軍事支援を要請するのは、そういうわけだったのか。

 韓国は紛争中の国に兵器を提供しない政策をとっていて、ウクライナ支援は経済・人道支援にとどめている。しかし、同様の政策をとっていたドイツやノルウェーなどは、ロシアのウクライナ侵攻後に方針を転換した。

 北朝鮮がロシアに軍事支援する一方で、韓国も重大な態度決定を迫られている。ウクライナ戦争はいよいよ極東にも軍事的に波及してきた。

 NATOが日本に何を具体的に求めて来るのか、注視しなければ。
・・・・・・・・・

 

 荒井勝喜首相秘書官性的少数者に関する発言を理由に更迭された。これは3日夜のオフレコ取材での発言だったのを『毎日新聞』が記事にして大問題になった。

 オフレコ取材を、あえて記事にしたのはなぜか。
 『毎日新聞』は、今朝の朝刊で検証を行っている。記事によると「首相秘書官へのオフレコ取材は平日ほぼ定例化している」といい、「オフレコ」を「録音や録画をせず、発言内容を実名で報じない」取材と定義する。

毎日新聞2月5日朝刊

 まず、現場にいた毎日新聞の記者が、官邸キャップを通じて東京本社政治部に報告。

「本社編集編成局で協議し、荒井氏の発言は同性婚制度の賛否にとどまらず、性的少数者を傷つける差別的な内容であり、岸田政権の中枢で政策立案に関わる首相秘書官がこうした人権意識を持っていることは重大な問題だと判断した。

 ただし、荒井氏を実名で報じることは、オフレコという取材対象との約束を破ることになるため、毎日新聞は荒井氏に実名で報道する旨を伝え、3日午後11時前に記事をニュースサイトに掲載した。荒井氏は3日深夜、再度、記者団の取材に応じ、発言を謝罪、撤回した。2回目の取材はオンレコで行われた。」

 過去に政権幹部らのオフレコ発言が問題になったケースでは、

#02年に福田康夫官房長官(当時)が「非核三原則」に見直しに言及

#09年に漆間巌官房副長官西松建設の違法献金事件の捜査に関し「自民党議員には波及しない」と発言

#11年に鉢呂吉雄経済産業相が、福島第一原発を視察のした後、衆院議員宿舎で記者団に「放射能をつけたぞ」という趣旨の発言。

#11年に当時の沖縄防衛局長が飲食店での記者懇談で米軍普天間飛行場辺野古移設に関して性的な表現を使って発言
などがあるという。

 今回のオフレコ会見の内容を報じた『毎日新聞』の判断はまっとうだ。

 いくらオフレコといっても、荒井氏の発言はひどすぎる。
 「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「同性婚なんて導入したら、国を捨てる人が出てきてしまう」。公職にあるものが絶対に口にしてはいけないレベル。報じられて数時間で更迭が決まったのも当然だ。

 岸田首相は「政権の方針とは全く相容れないものであり、言語道断だ」と語るが、夫婦別姓にすら反対する岸田内閣は荒井秘書官と同じ考え方だったのではないか。

 ジェンダー問題で、自民党が維新の党やNHK党など他の保守政党と比べてもとくに後ろ向きなのはなぜか。この点からも、統一協会自民党との関係を徹底的に明らかにしなければならない。

 統一協会は国政レベルでも地方でも、自民党の議員に対してジェンダー問題を「教育」し、ロビー活動を行ってきた。選挙で支援していただけでなく、国の政策立案に影響を与えてきた可能性は濃厚だ。

takase.hatenablog.jp

 それにしても、約10人もの記者を前に、こんな戯言ふうな低レベルの話をべらべらしゃべったというのは、本人と記者たちが普段から馴れ合いの関係にあったのではないかと想像してしまう。

 首相補佐官以外にも毎日多くのオフレコでの取材が行われているだろうが、「問題発言」はほとんど表に出ないままに垂れ流されているのではないか。たまにテレビに映る記者会見でも、お追従のような質問ばかりでうんざりする。
 今回のオフレコ発言の記事化が、権力とメディアとの間に適正な緊張関係を取り戻すきっかけになればと願う。

 なお、「朝日新聞は、荒井氏が差別発言をしたオフレコ取材の場にはいなかったが、発言を釈明したオンレコ取材などを通して、その内容を報じた」(朝日新聞5日朝刊)という。

 毎日新聞によれば、このオフレコ取材には、「毎日新聞を含む報道各社の記者約10人が参加した」そうだが、朝日がそこにいなかったのはなぜなのか、ちょっと気になった。

中村哲医師とフランクル3

 荒井勝喜首相秘書官が3日夜、オフレコ前提の記者団の取材で性的少数者について「隣に住むのもちょっと嫌だ」「見るのも嫌だ」「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」などと発言、相次ぐ批判に、岸田首相は更迭を決めた。

同性婚を認めたら社会が変わってしまう」と岸田首相。(テレビ朝日ニュースより)

 荒井秘書官の「同性婚制度を導入したら社会が変わる。社会に与える影響が大きい」との発言は、岸田首相の答弁そのもの。もともと同じ見解だったのだろう。荒井氏が首相のスピーチライターとして重宝されていたことがよくわかる。

 テレビでこのニュースを見て、「同性愛の人もアウシュビッツガス室送りになったんだよな」とつぶやくと、隣にいたつれあいが「えっ、そうなの。知らなかった」と驚く。フランクルのことを考えていたので思わず口にしたのだが、ナチスユダヤ人だけでなく、ロマ(ジプシー)や社会主義者、さらには同性愛者なども強制収容所送りにした。ナチスにとっては「見るのも嫌」な存在だったのだ。

 中村哲医師、ビクトール・フランクルともに、この世の地獄と言ってもよい過酷な状況を体験している。

 フランクルは、ウィーンで生まれたユダヤ人の精神科医で、ナチスドイツにオーストリアが併合され、妻や両親とともに強制収容所に入れられた。1945年に四つ目の収容所で解放されたときは40歳で、家族はみな収容所で亡くなっていた。失意の中書き上げたのが『一心理学者の強制収容所体験』で、のちに世界で読み継がれることになる。日本では56年8月15日にみすず書房から『夜と霧』の書名で出版され、累計100万部のロングセラーになっている。日本はこの本の翻訳では世界で2番目に早く、フランクル愛読者の多い国だそうだ。震災後の2011年には、極限状況における生き方を求めてか、『夜と霧』が新訳・旧訳合わせて3万部も売れたという。

右が新訳で大きな文字、こなれた訳で読みやすい。ただ旧訳(左)にあった65頁におよぶ「解説」がなくなっている。

 『夜と霧』にフランクルが描いたのは、「強制収容所の日常はごくふつうの被収容者の魂にどのように映ったのか」という「内側から見た」体験記だ。

 被収容者の中でも、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまった者だけが命をつなぐことができ、「いい人は帰ってこなかった」といわれる過酷な状況。そこにおいてさえ、美しい夕日に感動し、愛する人を思い、人生に希望を見出すことができた。その体験を経て、フランクル「それでも人生にイエスと言う」ニヒリズムを克服する思想を打ち立てる。

 中村哲さんは、1973年、九州大学医学部を卒業すると、精神神経科の勤務医になった。その選択の理由を中村さんは、「当時、人間の精神現象に興味があったこと、精神科なら比較的ゆとりができて、昆虫採集や山歩きもできるだろうという程度の安易な気持ちがあった」こと、それに傾倒していた思想家に、精神科医フランクルがいたことを挙げている。

 中村さんが見た“地獄”もすさまじい。

 アフガニスタンに駐留するソ連軍とムジャヒディン(イスラム戦士)との戦いが進行中の1986年前後、国境地帯に300万人近い難民があふれていた。外国人はペシャワールのモデル・キャンプしか訪れず、大方のNGOは大都市に本拠を置き、ジャーナリストは戦争の動向にばかり集中していた。

 中村さんは、外国人が行けない奥地の国境に赴いた。「描くのに躊躇する」というその実態は―

《遠隔地の国境地帯は特に厳しかった。爆撃で追われた人々の群れが長い逃避行の後、大量に死亡することは普通に見られた。わずかの医薬品を下げて「救急援助」にかけつけた時、数百家族が既に凍死していたことも一切ではない。荒涼たる岩石沙漠の中に無造作に折り重なる屍の山。嘔吐を催しながら、まだ生命のある者を選び出して処置したが、救命できた例はなかった。医療とよべる代物ではなかった。無数の墓標は忘れることができない。

 難民キャンプでもまた、死が隣り合っていた。270カ所に分散された300万人の難民たちに、十分な食糧配給のないことも少なくなかった。命からがらキャンプに到着したあげく、飢えと病と越境爆撃で落命するものが続出した。内戦による死亡者は200万人以上と見積もられる。そして、この大半が報告書に載らぬ一般の女子供や老人たちであったのは確かである。

 自活を余儀なくされた人々は、或いはペシャワールで出稼ぎをし、或いは反政府党派の傭兵となり、その日の糧をかろうじて得て生き延びた。国境のキャンプは反政府ゲリラ組織の補給基地となり、武装した人々が国境を行き交い、政府軍捕虜の処刑が普通に行われた。捕虜たちは羊のように屠殺され、首は路上にさらされた。》

 しかし、暗いことばかりではなかった。難民たちと寝起きをともにした日々―

《身近な飢えも死も、その状況が日常化した者にとっては、普段は何でもない、ささやかな喜びと慰めによって相対化される。冷えたナンの切れはしも、みなで分かって談笑すれば、何にも勝る晩餐となる。誰かが大きな木の株を拾ってきて、数日ぶりに暖炉があたたかくなった時は、皆で歓声をあげた。どんなに欠乏しても、彼らは当然のように食を分かち合い、ユーモアを忘れなかった。子供たちは栄養失調で倒れるまで明るかった。

 「生きる厳しさ」は世界中同じでも、追い詰められた場面では、人の生きざまが鮮やかに映る。人間が飢えと死に直面したとき、その品性までが堕落するとは限らない。いや、素朴な生活であればあるだけ、そこに人間の温もりがあった。この楽天性と明るさは一つの特権なのかも知れない。

 我々もまた、この温もりに支えられて活動を拡大できたのだと、今にして思われる。わずかな食糧で群衆を満たした「パンかごの奇跡」の寓話を、私は初めて理解した。》(96年12月18日会報より)

 極限状況を体験した二人は、どのような生きる指針を持ったのか。

(つづく)

(河原理子『フランクル「夜と霧」への旅』平凡社から参考にした)

中村哲医師とフランクル2

 節分だ。

福はうち!の豆。毎年使うマスは結婚式で配ったやつ。

先日、畑を鍬で掘ったら、土が凍って板状のかたまりになっていた。寒気はまだ続くのか。

 むかしは、節分の日は、自作した鬼のお面をつけて帰宅して、玄関で子どもたちが悲鳴を上げるのを楽しんだりしたな。明日は立春。みなさんの息災を祈ります。
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 中村哲医師は、1994年にパキスタンの北東、アフガニスタン国境に近いペシャワールでライ(ハンセン病)の治療を始めた。(差別をなくすために「ハンセン病」と病名を変えることに異論を持っていた中村さんの用語法に従い、以下「ライ」と記す)

 「汚い聴診器が一つと、ディスポ(使い捨て)の注射器をなんべんも使っていました」という劣悪な医療現場に中村さんは飛び込み、2千数百人のライ患者を診ることになる。妻と幼い子どもまで連れて、なんでまた、そんなところへ?と多くの人に尋ねられ、また諫められたという。

 ライの治療を始めて間もなく、中村さんは、街中の靴屋でたくさんのサンダルを買い集める。なぜか。

 ライの治療を終えて退院した患者が、また病院に戻ってくるケースが相次いだ。合併症「足底潰瘍」が問題だった。ライは抹消神経をマヒさせるので、足の裏に傷ができても気づかず、症状を悪化させていたのだ。入退院を繰り返せば、患者にも家族にも大きな負担をかける。患者が村から追われたり、離婚される人までいた。

 そこで中村さんは、さまざまなサンダルを買い集めて、自ら構造や材質を調べ、患者一人ひとりの足の形状にあった、傷のつきにくい履物の開発にとりかかったのだ。そしてついには、中村さんが街でリクルートしてきた履物職人を含む3人のスタッフで、病院内にサンダル工房を開設するにいたる。

 以下、中村さんが書き送った当時の通信より。

 「当初私の頭の中にあったのは、要するに困った患者を診てあげたいという単純なものでした。しかし、しばらく居るうちに、ひどくなった患者を病院で待っているだけでは、だめだということがわかってきました。例えば、ライのやっかいな合併症に足底潰瘍というのがあります。これは、ライの患者では手や足の感覚がなくなるために痛みを感ぜず、足のうらに無理な力がかかってもそのままで、足のうらに傷ができ、そこから感染したりして、だんだん足が歪んだり、なくなってきたりするのです。これは、入院させて安静にさせておき、ひどいものには抗生物質を与えておけば治るのですが、たいていの場合は再び同じ状態で数ヶ月後に戻ってきます。このような状態では、とくに一家を支える主が患者の場合、家族にとっては大変な負担になるし、われわれにとっても湯水のように高価な薬や包帯を際限もなく使わせることになります。このいたちごっこを断つためには、潰瘍のできにくいような靴を患者たちに配布することから始めなければなりません。つまり、病院にたてこもってじっと待っていたのでは駄目で、予防や教育のために外にうってでなくてはなりません。患者の社会生活が保障できるよう、様々の工夫が要求されます。乞食根性を失くして、自活の道を開いてあげることもしなくてはなりません。」ペシャワール通信(4)より)

 中村さんは、医師として患者の病気を治すだけで「おしまい」とは思っていない。患者をまるごと一人の人とみて、退院したあとの患者の人生にも思いをいたしていた。のちに病院の「外にうってでて」用水路作り、さらには「三度三度メシの食える」農村づくりへと突き進んでいく萌芽がここに見られると思う。

 中村さんは、赴任4か月の1984年9月にこう書いている。

「群をなしてやってくる難民たちや、社会的偏見の重圧下で生きているらい患者たちを診ていると、まだまだ私たちの力というよりも努力が足りないような気さえしてきます。怪我を治してもらって喜んでジハード(聖戦)に帰ってゆくアフガン人の背中を複雑な気持ちで見送ったり、次々に下痢で死んでゆく乳児たちと母親の悲しみにもらい泣きしたりすることもあります。「病気」として現れる人間の不幸が、わが同胞たちの不幸の全体の、ごく一部にすぎないというのが私の実感です。」ペシャワール通信(2)より)

 患者は「わが同胞」であり、その病気は人間の不幸の一部にすぎない。
 とすれば、中村さんにとって医業は身体の治療にとどまらない。

 こうした中村さんの思想は、いかにして形作られたものなのか。

 中村さんは傾倒する思想家の一人にビクトール・フランクルを挙げている。
 
ユダヤ人としてアウシュビッツはじめ4つの強制収容所に入れられ、解放後、体験にもとづき、極限に置かれた人間の実態と心のありようを『夜と霧』(原題は、一心理学者の強制収容所体験)という本にまとめた精神科の医師である。

フランクルwikipediaより)


 ともに医師で、中村さんもフランクルと同じく、精神科医としてキャリアを始めている。だから、医師としての心構えなどについては、かなり深い影響を受けているのではないかと推測した。だが、なかなか「線」がつながらない。

 最近、中村さんの言葉を読み直しているうち、人生への向き合い方という実存的なところで通じ合うものがありそうだと思うようになった。

 中村さんは言う。
「己が何のために生きているかと問うことは徒労である。」

 フランクルは言う。
「私たちは生きる意味を問うてはならないのです」   

 では、どう生きればよいと二人は説くのか。
(つづく)

中村哲医師とフランクル1

 ミャンマーでクーデターが起きて2年の2月1日、日本各地で国軍に抗議し、民主化を訴える集会やイベントが開かれた。

きのう紹介した広島のアウンチーミィンさんたちは原爆ドームの前で訴えた(NHK

 現地ミャンマーでは抗議のため仕事を休み外出を控える「沈黙のストライキ」が呼びかけられ、街の通りが閑散となったという。今も国民の圧倒的多数が国軍を忌避していることを示す。

2月1日の昼前のヤンゴンの通りは閑散としていた(NHK

 2年たっても出口が全く見えないなか、武器をとって戦う人たちがいる一方で、不正常ながら戻ってきた日常に妥協しながら生きる選択をするものも出ている。人情としては理解できる。国民の窮乏化も進んでいるという。

ヘビーメタルバンド「ブラッドオブセンチュリー」は国軍を罵倒する代表曲「レボリューション」を封印した。 著名バンドが演奏中止になるのを見て判断したという

迷い悩みながら歌っているとボーカルのリンさん(27)は言う

国民の生活が危機にあるという(NHKニュース)


国連のアンドリュース特別報告者は、「ウクライナ危機では、国際社会の協調的なアプローチがあったが、ミャンマー情勢においてはそれがない」と指摘。 手詰まりを認めた。

報告書では、ロシア、中国、インドなどに対し、ミャンマー軍に財政的な支援や物的な支援を行わないよう求めるとともに、日本にはすべての経済支援の見直しと防衛省が留学生として受け入れる軍幹部らの追放を要請している。

 国軍は非常事態宣言の半年延長を決め、8月に予定していた総選挙は先送りされる見通しだ。

 ウクライナの事態の陰で関心が薄れがちだが、もう一度、国軍のクーデターと今も続く残虐行為には一片の道理もないこと、ミャンマーの人々が苦境に立たされていることに思いをめぐらそう。

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中村哲医師は、2004年、「イーハトーブ賞」(宮沢賢治学会主宰)を受賞した。

中村さんは「特別にこの賞の受賞を光栄に思う」として、自らの人生を「セロ弾きのゴーシュ」になぞらえて述懐している。 宮沢賢治は、中村さんが傾倒した思想家の一人である。 以下抜粋。

(前略)
この土地で「なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。 人類愛というのも面映(おもはゆ)いし、道楽だと呼ぶのは余りにも露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。 良く分からないのです。 でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。 セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。 仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。 てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。

私の過去20年も同様でした。 決して自らの信念を貫いたのではありません。 専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。 それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。

幾年か過ぎ、様々な困難―日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し,幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。 でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。 無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。 自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。

よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。 予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。 賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。 遭遇する全ての状況が―古くさい言い回しをすれば―天から人への問いかけである。 それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。 その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。 それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。 (以下略)

 

中村さんは叔父である火野葦平の著作を幼少期から読んでいたそうだが、いつもすばらしい文章を書く。 上の述懐を感慨深く読んでいるうち、この生き方に既視感を覚えた。

 あの『夜と霧』を書いたフランクルではないか・・。

(つづく)

 

クーデターから2年「ミャンマーを忘れないで」 

 先日、鈴木邦男氏(元一水会顧問)が亡くなった。少しだけご縁がある。

 私の会社が制作した番組について、「よど号」ハイジャック犯が「名誉棄損」で私と会社を訴えてきたことがある。2年にわたって裁判で闘ったのだが、塩見孝也赤軍派議長はじめ何人もの元新左翼の著名人が「よど号」犯側の応援団になり、私のところには「月夜の晩だけじゃないぞ」という古典的な脅迫状が送られてきたりして気を張った日々だった。

 「よど号」側についた著名人の中に、鈴木邦男氏がいた。

 面識がなかったのだが、ある集会でたまたま鈴木邦男氏を見かけた。これから敵同士で闘うことになるなら挨拶しておこうと、声をかけ、自己紹介した。
 私が名乗ると、「ああ、高世さんとはお会いしたかったんです」と屈託なく応対してきたので、穏やかに話をして、こんどゆっくり会いましょうと言って別れた。それきりになったが、あたりの柔らかさは印象に残っている。

 裁判は弁護士4人を立てて必勝の態勢で臨んだが、相手が途中から出廷しなくなり、立ち消えになった。不戦勝みたいなものか。


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 2月1日は、ミャンマーの軍事クーデターから2年になる。新聞には「対ミャンマー 国際社会手詰まり」の見出しが。

 ASEANが国軍側に暴力の停止などを求めた5項目合意は守られず、クーデター後、2900人以上の人々が軍によって殺され、約1万3千人以上が獄中にある。また140人以上の民主派に死刑判決が下され、去年7月にはアウンサンスーチー氏の側近の議員に死刑が執行されている。

1月31日朝日新聞朝刊

 これほどの残虐非道にもかかわらず、ミャンマー国軍に対して日本政府は融和的な姿勢をとり続けている。ミャンマーへの新規の途上国援助(ODA)は見合わせる一方、既存案件は継続する方針をとっていて、円借款で現在継続中の案件は34件、計7396億円(契約ベース)にものぼる。

 そのODA案件で、事業を受注する「横河ブリッジ」から国軍系企業「ミャンマー・エコノミック・コーポレーション(MEC)」に約200万ドル(約2億6千万円)が支払われていたことがわかった。
 供与限度額約310億円の円借款案件の「バゴー橋建設計画」で、工事は19年末に始まり、クーデター後に一時停止したが、昨年4月に再開したという。MECは資材調達の一部を担当する下請けにあたる。MECについては19年に国連人権理事会調査団が「国防省がMECを管理し、軍の直接的な収入源になっている」と指摘、米国や欧州連合EU)はMECを経済制裁の対象にしている。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15542359.html

 国際社会の分断で、国連安保理ミャンマー国軍に対して暴力の停止やアウンサンスーチー氏らの釈放を求める決議を採択したのは、クーデターから1年10か月も過ぎた昨年12月のことだった。「手詰まり」を象徴している。

 状況に進展なく時間がたち、日本でもミャンマーへの関心が薄れている。「ミャンマーのことを忘れないで」と訴える青年をテレビが取り上げていた。

 アウンチーミインさんは4年前、民主化が進む中、国の発展に尽くそうと来日。現在、大阪市立大学の大学院で国際平和について学んでいる。

来日前、民主化が進んで未来に希望を持っていたアウンチーミインさん(NHKニュースより)

 2年前、予期せぬクーデターに衝撃を受けた。彼の家は「マグウェ管区」という、国軍が住民に激しい攻撃を加えている地域にある。いとこの住む村で30軒が燃やされた映像が届いた。家族は家も仕事も失ったため、アウンチーミィンさんは、アルバイトを増やして実家に仕送りしている。

アウンチーミインさん(NHKニュース)

 彼の友人には、民主派のPDF(国民防衛隊)に加わって、武装闘争を続けるものもいる。また、母校タゴン大学の学生7人が死刑判決を受けたとの報も届いた。彼は故郷のことを心配しながら、命がけで闘っている友人や後輩を思い、自分でも日本でできるだけのことをしようと決意している。

 

毎月1日に街頭で呼びかける

自らマイクで市民に呼び掛ける

 毎月1日に広島市内の街頭に立って、ミャンマーを忘れないでと訴えている。先日は、自ら写真展を開催し、見に来てくれた人に自ら説明していた。

企画した写真展で(NHKニュース)

 日本政府は、「独自のパイプ」で国軍とつながるだけでなく、少なくとも民主派勢力が樹立した「国民統一政府(NUG)」と接触し対話をもち、民主派を支持する姿勢を示すべきだ。

「タリバンはやや国粋的な田舎者」(中村哲氏)

 1月30日は、民俗学者宮本常一先生の命日で、恒例の水仙忌が国分寺市東福寺で執り行われた。 

愛媛の宮本常一を語る会から届けられた水仙と故郷の周防大島から送られたみかん「寿太郎」をお供えして

直接に薫陶を受けたお弟子さんたちを含めおよそ50人が参列した

 コロナのため去年、一昨年は中止で3年ぶりの開催。今回が43回忌で、50回忌まではやろうと、みな80代になったお弟子さんたちがいう。故人をしのぶ命日がこんなに長く続いているのは、宮本先生の業績のすばらしさに加えて、お人柄が大きいのだろう。

 実はアフガニスタンを理解する一つのカギが、宮本民俗学にあると思い立ち、もう一度学び直そうかと思っているところだ。これについては、あらためて書こう。
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 タリバンが邪悪な恐怖政治集団というイメージが欧米から発信されてきたが、実際にタリバンに接した人たちはそれをくつがえす。コリアンと親しく接している人はヘイトスピーチに染まったりしないのに似ている。

 中村哲医師は活動していた地域が伝統的なタリバンの勢力圏だったこともあり、彼らとの付き合いは長い。

 中村さんのタリバン評がもっとも率直に出ているのは、私が見た限りでは、米軍がアフガニスタンを攻撃しタリバンが政権を追われた直後に出た『ほんとうのアフガニスタン』(光文社、2002年3月)の次の箇所だった。


 講演会のあとの聴衆との質疑応答である。


Q:タリバン政権下のアフガニスタンでは宗教については戒律をきちんと守っていないと宗教警察のようなものに検挙され、弾圧されると聞いたのですが、実際は、どのような状況でしたか。

中村:これに関しては欧米の視点からのみの報道によって、実態がゆがんで伝えられてしまいました。じつは、カブール市を除くほとんどの地域は、簡単に言うと田舎、アフガニスタン全体が巨大な田舎国家と言っていいわけです。タリバンというのは、言い方は悪いですが、やや国粋的な田舎者の政権なのです。ということで、中には荒唐無稽な布告もありましたけれども、ほとんどが昔から農村で守られてきた慣習法をそのまま採用した。

 ただ、カブール市内だけは、かなり西洋化された街でありまして、昔は、ミニスカートが流行ったりということもあったのです。しかし、こういう西洋の風俗を身につけておったカブールの人たちというのは、ごく一部の特権階級の富裕層ということ。アフガン人でありながらアフガン人とは言えないような人たちであった。こういう人たちは、内乱とともに国外に逃れだして、そしてタリバンのイメージというのをつくりだしたという面もある。

 宗教的な布告も、ほとんどの貧民層と農村の人々にとっては、全く抵抗がなかった。なぜかと言うと、旧来の慣習法のままですから、以前の生活と変わりなく暮らせばいいだけの話です。

 たとえば日本人に、三回の食事のうち、一回は米の飯にしなさいというふうな布告を出すのに似ているわけですね。ブルカ着用でもそうで、ほとんどの農村の、これはペシャワールでもそうですし、あれは一種の女性の外出着です。普通の女性は必ずこれを着用しています。だから、ブルカ着用は可哀想というなら、日本女性の和服に欠かせない帯を、あんなに体をきつく締めて可哀想に、解放してあげなくてはという類の余計なお世話でもあったわけです。

 話が脱線しますが、現地で、欧米人や日本人がトラブルを起こすことのひとつに、女性が顔を出して歩き回るということがある。顔を出して歩くという行為自身が、特に年齢が若い場合は、「だらしのない女性」というふうに庶民には見られるのです。これはまあ、習慣ですからどうしようもない。そういうことをタリバンは都市の人にも強制したということは、問題がありましたけれども、99%の一般のアフガン民衆にとっては、ブルカを着る着ないなどというのは、問題にも感じていなかった。それよりも、安全に外が歩けて、ご飯が食べられて、安全な家庭で生活できるほうが、はるかに良かった。

 もっとも、宗教規制の中にも、ずいぶん荒唐無稽なものもあって、たとえば偶像崇拝を禁止しました。ペシャワール会のマークは、赤い三日月に、ハトのマークが付いている。「動物崇拝は偶像崇拝とみなされる」と、これに文句が出る。そのときどうしたかというと、タリバンの役人が苦笑いしながら「先生、ちょっと悪いけど、ハトの顔のところだけバンソウコウを貼って隠してください。それで、問題ありませんから」と。まあ、規制する側も、荒唐無稽だということを知っておったのです。

 テレビも宗教警察からは規制を受けていたということですが、これはこっそり見るのはだれも咎めない。第一、テレビなど高価で庶民には手が届かないし、電気がまともにあるところがない。それからラジオも表向き禁止でしたが、宗教法話を聴くために必要だという名目でなら聴ける。ということで、少しづつ開放政策に向かっておった時期ではあった。そのへんが報道されなかったということです。いずれにしても、規制はいろいろあったが、田舎にある慣習法を、そのまま御触れとして、これを徹底して国土を統一し、懸命に治安を守ったというのが実態じゃなかったか、というふうに私は思っております。

(『ほんとうのアフガニスタン』光文社2002年P149-151)

収容所から強盗指示―なんでもありのフィリピン

 コスパのいいアルバイト」として強盗をやるという時代になったのか・・・。

 狛江市の事件をふくむ、関東など各地で相次いでいる強盗事件。このグループが特殊詐欺も行っていて、被害額が約35億円に上ることがわかったという。警視庁と18道府県警が末端メンバーら約70人を逮捕。強盗事件同様、SNSの「闇バイト」で加わったメンバーもいた。

 これらの犯罪を、フィリピンで逮捕されて収容所に入れられている人物が直接指示したことが注目されている。

 一昨日のTBS「報道特集」。村瀬キャスターが、フィリピンの入国管理事務所のバクタン(Bacutan)収容所にいる今村磨人(きよと)容疑者を直撃していた。今村はシラをきるばかりだったという。

 彼の暮らしぶりは―月々6万円でVIPルームに居住、職員に賄賂をわたして携帯を使い、特殊詐欺の犯行中もライブで、「逃げろ」とか「叩け」(強盗の隠語)などと指示を出していたという。詐欺でだまし取ったお金は、部下にフィリピンに送金させ、収容所職員が銀行から降ろして今村に届けている。

今村容疑者。VIPルームの個室から携帯で日本に詐欺をもちかけているところ。(TBS報道特集より)

 

他の人たちはエアコンもない共同の大部屋で裸ですごす


 2019年、日本からの要請で、特殊詐欺フループ36人が逮捕され収容された。36人は去年7月、全員の強制送還が終わったが、今村容疑者は、札幌時代の友人ではやり指示役の渡辺優樹容疑者とともにまだ送還されていない。フィリピンの友人に頼んで告訴させ、裁判中は送還されないようにしているという。

収容所内では薬物も「自由」に使われている(報道特集より)

収容所内からの指示では、さかんに「叩け」(強盗の隠語)と指示していた(報道特集より)


 その当時、同じ収容所にいた人が撮影した映像を「報道特集」は20年12月に流していた。今村容疑者は、他の被収容者にマッサージをさせたり、薬物を私用するなど好き勝手に「生活」していた様子が映っている。

 実は、3年前、同じ収容所にいた人が日本の恋人に「収容所内で、日本の仲間に命令して強盗などをやらせていることを日本の警察に伝えてくれ」と連絡があった。警察に連絡したが、証拠がないとして相手にされなかったという。このときしっかり対応していれば、その後の被害は防げたかもしれない。

 フィリピンでは、収容所の中で勝手なことができるのか?!と多くの人は驚いたと思うが、フィリピン滞在4年の私が、その実態の一部を紹介しよう。
・・・・

 私は、戦後最大の拳銃の密輸事件で逮捕され強制送還を控えていた「拳銃密輸王」にフィリピン入管の収容所の中で暴行を受けケガをしたことがある。収容所の中で、である。日本では考えられないシチュエーションだが、あの国ではなんでもあり、だ。

 TBSに「拳銃密輸犯」のインタビュー取材を依頼された私は、収容所のなかにビデオカメラを持ち込んで本人への直撃を試みた。こういう取材も、多少の「ワイロ」で可能である。

 当時の私はまだフィリピン事情に疎く、収容されている「密輸犯」が、まさか手錠もされずに「自由に」行動していて、この野郎!と殴りかかってくるとはツユ思っていなかった。

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私を殴った「拳銃密輸犯」金田仁氏は、日本で刑期をつとめたあと再びフィリピンに住み、ビジネスマンとして成功をおさめた。そして、その金田氏と和解するという、不思議なめぐりあわせをも経験した。

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 フィリピンの刑務所はとてもおもしろくて、マニラシティジェイル(マニラ市刑務所)では、4棟の収容棟を主要な四つのマフィアが仕切っており、定期的にマフィア対抗バスケットボール大会もあって、トロフィーが飾られていた。

 また、奥さんや恋人が泊っていくことも可能で、刑務所内で小さな子ども(明らかにその人が収監されている間に生まれた)を可愛がっている囚人もいた。同性愛者同士は別の部屋に住まわせたり、マフィアはある意味「人道的」配慮もしていた。

 刑務所内の囚人がこうした「自由」を享受できるのは、看守が囚人と「つるんで」いるからなのだが、その主な理由はお金で、マフィアに看守が買収されていることにある。もう一つの理由は、それぞれの棟に「自治」を与えることで、マフィアのご機嫌をとろうとするからである。刑務所内ではときに大規模なマフィア同士の抗争や暴動で死者が出たりする。看守としては、お前たちの棟はお前たちに仕切らせるから、あまり面倒を起こさないでくれよ、というわけである。刑務所長も、自分の任期中はなんとかおとなしくしていてほしいので「自由」を黙認する。

 その後、私はフィリピンの囚人をドナーとする国家犯罪ともいうべき腎臓移植スキャンダルをスクープしたが、それは、長期刑の囚人が収監されているモンテンルパ刑務所の中にカメラを持ち込み、「自由に」取材できたおかげである。

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 この取材のせいで、私はガンマンに狙われてフィリピンから逃げるという、まるでドラマのような展開になる。

 当時の私はむちゃくちゃだったな。


 ずいぶん昔だが、地平線会議という冒険者たちの集まりで、フィリピンの裏社会について報告したことがある。

 ここに紹介するのは、私の報告をジャーナリストの樫田秀樹さんがまとめてくれた文章。樫田さんとは、マレーシアの熱帯雨林伐採問題の取材で入っていった、サラワク州ボルネオ島)の奥地の集落で出会った因縁がある。
http://www.chiheisen.net/_hokokukai/_hk96/hkrp9610.html


フィリピンの裏舞台~高世仁
  1996.10.29/アジア会館

●1989年7月のことだった。ボルネオ島の熱帯林で、私が先住民とその生活を共にしていた村に、弁護士を中心とした日本人の調査団がやってきた。その中に、ぷっくりとした色白の、一見オカマにもてそうな男性がいた。それが高世さんだった。熱帯林伐採の取材に来たのだ。

●どこでもそうだが、いわゆる『被害者』に話を聞くときは注意がいる。ついつい、ありもしない話で事実を誇張してしまうからだ。弁護士の先生たちは村に来ていきなり話し合いに入った。一番まずいパターンだ。村人は先生たちの意図に応えようと、大袈裟な話のオンパレードをサービスした -みんな栄養不足だ、ボートを作る木もない、魚も一匹もいなくなった、伐採が始まってから子供に皮膚病が…、木材会社の人間の首を切ってやりたい! うーん…。

●先生たちは実際、帰国後に「先住民はこんなに困っているのです」との報告書を作成したらしい。一人だけ違っていたのが高世さんだった。話し合いの翌朝に私のところに来てこう言った -「ねっ、聞きたいんだけどさ,この人たちは本当に困ってんの?」。おっ、つきあえるぞ、この人とは!

●高世さんの取材はきわめて的確だ。表面的な事象ではなく、なにが問題の本質かを見抜く目を持っている。今までのスクープは、囚人腎臓売買、北方領土一番乗り、サハリン残留韓国朝鮮婦人、アウンサウン・スーチーへのインタビュー、そしてスーパーK(高世さんの独断場)。話もうまい。特に興味深く聞かせてもらったのが、3年間駐在していたフィリピンの裏話だった。

●火災保険目当てで自分のホテルに放火するオーナー(高世さんの同僚が巻き込まれた)、葬儀屋からのリベート欲しさに死体確保に血眼になる消防士(消火はしない)、弁護士も裁判官もカネ次第、事前に賄賂を払えばその場で答えを教えてくれる自動車免許試験、大学の卒論だって雑貨屋で販売、恨みをかえば、警官、入管グルで投獄の憂き目にあう…。

●檻の中にいるはずの囚人が、最低2週間の病院での安静が必要な腎臓摘出手術を受けている。ここを取材するうちに,高世さんは、刑務所の中がきれいに四つにギャング団の支配下に分かれていて、その一つ「シゲシゲスプートニク」(行け行け!スプートニク号)と知り合い、奇妙な親交を深めることになる。

●人を閉じこめておく場所の刑務所が実はギャングの総本山。人を殺すために外出して、2、3日後にまた戻る。何でもありのフィリピン。しかし、高世さんは、腎臓問題が日比両国の国会で問題になるにいたり、命を狙われることになる。その情報をつかんだその日に国外脱出。

●「でもね、フィリピンには善人と悪人との境目がないんだよね。そのへん歩いてる奴が人を殺している。かといって、貧しいものでも生きていける相互扶助は必ずある。誰でも決して過去を問われずに生きていける。フィリピンは目茶苦茶だけど好きなんだよね」

●高世さんは最後に、アジア各国で実施された『自分が幸せかと思うか』のアンケート結果を発表してくれた。フィリピンが断突で90%以上。最低が日本だった。母親は子育てに疲弊し、障害者や老人は施設に隔離され、サラリーマンは時間に追われる。フィリピンが無秩序の中の秩序とすれば、日本は秩序の中の無秩序の国かもしれない。

●だが高世さんは6年前、私の報告会を聞くために地平線会議に参加したのをきっかけに嫁さんをみつけたという幸せ者である(4回目のデートでプロポーズ)。

●来年は是非北朝鮮の話を聞かせていただきたい。[樫田秀樹]

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以下は、報告会についての感想

高世さんの報告をかいつまんでお話しします。

高世さんが取材を行ったフィリピンの裏社会でうごめくギャング団と警察の関係や、フィリピンの医療グループとの日本国内ではできない肝移植をめぐる日本の医療界の間をうごめく不明瞭なお金の正体を追った事を中心に、自ら命を追われた経験や、これからの取材先についての報告でした。

今回はスライドは使わず、テレビ番組を収録したビデオを見ながらの報告という形ながら、操作面でちょっと戸惑いつつも、あの手のドキュメンタリー番組らしく、おどろおどろしいナレーションとBGMでフィリピンの現実(しかし実際は高世さんからのもっとどろどろした現実の話の補足を受けながら)が展開されていました。

犯罪の90%は、警官が関与している事。
募集される警官は経歴は問わず、じゃぱゆきさんが課長を努めている事実もある。
肝臓提供者は善意となっているが、実際は囚人がお金で臓器を売っている事実。
マニラでは4大ギャングがあり、囚人は全員どこかへ所属しなければならない。
警官があまりにも信頼性がなくなっている現在、ガードマンという職種が大金持ちや地位の高い人の身の回りを守る私設警察のような位置にあるようです。警察がまた犯罪に走る理由としては、給料が極めて安く、ワイロや恐喝でそれを補っているのもあるようです。

会場に来られていたフィリピン人の方(武田さんのお知り合い)が頷いたり、ご自分の出身の島での現実の話をされたりして、これもまたノンフィクションのフィリピンの民族文化とでもいうのか、混沌とした社会をしみじみ感じされてくれるものでした。

世界で行った、自国の満足度調査という国民の意識調査では、フィリピンが極めて高かった、との事です。90%程度だったと聴きます。逆に、日本は40%にも満たない、精神的に不満足度の高い国民だという事。なんだか納得できるような、できないような。(^^;)警官がグルとギャングがグルになって、犯罪の限りをつくして日中から人が平気で殺されるような物騒な国にしては、この満足度というのが不思議な数字なのかもしれません。タイなんかも同じ方向だそうです。

高世さんが臓器移植をめぐって刑務所に取材に行かれた時、その4大ギャングの中のシゲシゲ団の組長と仲良くなった、という話がとても楽しかったですね。でも、現実には緊迫感があったシーンもあったようですが、話がうまく、それを「カジュアル」という表現をされて、そのシゲシゲという名前はフィリピン語では「いけいけ」という意味だとか、その団を表す入れ墨がまるで子供のラクガキのような絵柄だとかいうのもその「カジュアル」という表現にピッタリでした。

ドロドロした、という中に、そのようなフィリピンの民族文化という世界が、とてもその緊迫感を感じさせなかったり、反面極めてアジア的な冷酷な所があったりというのがよく感じれたような気がします。

冒険、旅とはまた違ったジャーナリズムの地平線報告会でした。(^^)