中村哲医師とフランクル3

 荒井勝喜首相秘書官が3日夜、オフレコ前提の記者団の取材で性的少数者について「隣に住むのもちょっと嫌だ」「見るのも嫌だ」「同性婚を認めたら国を捨てる人が出てくる」などと発言、相次ぐ批判に、岸田首相は更迭を決めた。

同性婚を認めたら社会が変わってしまう」と岸田首相。(テレビ朝日ニュースより)

 荒井秘書官の「同性婚制度を導入したら社会が変わる。社会に与える影響が大きい」との発言は、岸田首相の答弁そのもの。もともと同じ見解だったのだろう。荒井氏が首相のスピーチライターとして重宝されていたことがよくわかる。

 テレビでこのニュースを見て、「同性愛の人もアウシュビッツガス室送りになったんだよな」とつぶやくと、隣にいたつれあいが「えっ、そうなの。知らなかった」と驚く。フランクルのことを考えていたので思わず口にしたのだが、ナチスユダヤ人だけでなく、ロマ(ジプシー)や社会主義者、さらには同性愛者なども強制収容所送りにした。ナチスにとっては「見るのも嫌」な存在だったのだ。

 中村哲医師、ビクトール・フランクルともに、この世の地獄と言ってもよい過酷な状況を体験している。

 フランクルは、ウィーンで生まれたユダヤ人の精神科医で、ナチスドイツにオーストリアが併合され、妻や両親とともに強制収容所に入れられた。1945年に四つ目の収容所で解放されたときは40歳で、家族はみな収容所で亡くなっていた。失意の中書き上げたのが『一心理学者の強制収容所体験』で、のちに世界で読み継がれることになる。日本では56年8月15日にみすず書房から『夜と霧』の書名で出版され、累計100万部のロングセラーになっている。日本はこの本の翻訳では世界で2番目に早く、フランクル愛読者の多い国だそうだ。震災後の2011年には、極限状況における生き方を求めてか、『夜と霧』が新訳・旧訳合わせて3万部も売れたという。

右が新訳で大きな文字、こなれた訳で読みやすい。ただ旧訳(左)にあった65頁におよぶ「解説」がなくなっている。

 『夜と霧』にフランクルが描いたのは、「強制収容所の日常はごくふつうの被収容者の魂にどのように映ったのか」という「内側から見た」体験記だ。

 被収容者の中でも、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまった者だけが命をつなぐことができ、「いい人は帰ってこなかった」といわれる過酷な状況。そこにおいてさえ、美しい夕日に感動し、愛する人を思い、人生に希望を見出すことができた。その体験を経て、フランクル「それでも人生にイエスと言う」ニヒリズムを克服する思想を打ち立てる。

 中村哲さんは、1973年、九州大学医学部を卒業すると、精神神経科の勤務医になった。その選択の理由を中村さんは、「当時、人間の精神現象に興味があったこと、精神科なら比較的ゆとりができて、昆虫採集や山歩きもできるだろうという程度の安易な気持ちがあった」こと、それに傾倒していた思想家に、精神科医フランクルがいたことを挙げている。

 中村さんが見た“地獄”もすさまじい。

 アフガニスタンに駐留するソ連軍とムジャヒディン(イスラム戦士)との戦いが進行中の1986年前後、国境地帯に300万人近い難民があふれていた。外国人はペシャワールのモデル・キャンプしか訪れず、大方のNGOは大都市に本拠を置き、ジャーナリストは戦争の動向にばかり集中していた。

 中村さんは、外国人が行けない奥地の国境に赴いた。「描くのに躊躇する」というその実態は―

《遠隔地の国境地帯は特に厳しかった。爆撃で追われた人々の群れが長い逃避行の後、大量に死亡することは普通に見られた。わずかの医薬品を下げて「救急援助」にかけつけた時、数百家族が既に凍死していたことも一切ではない。荒涼たる岩石沙漠の中に無造作に折り重なる屍の山。嘔吐を催しながら、まだ生命のある者を選び出して処置したが、救命できた例はなかった。医療とよべる代物ではなかった。無数の墓標は忘れることができない。

 難民キャンプでもまた、死が隣り合っていた。270カ所に分散された300万人の難民たちに、十分な食糧配給のないことも少なくなかった。命からがらキャンプに到着したあげく、飢えと病と越境爆撃で落命するものが続出した。内戦による死亡者は200万人以上と見積もられる。そして、この大半が報告書に載らぬ一般の女子供や老人たちであったのは確かである。

 自活を余儀なくされた人々は、或いはペシャワールで出稼ぎをし、或いは反政府党派の傭兵となり、その日の糧をかろうじて得て生き延びた。国境のキャンプは反政府ゲリラ組織の補給基地となり、武装した人々が国境を行き交い、政府軍捕虜の処刑が普通に行われた。捕虜たちは羊のように屠殺され、首は路上にさらされた。》

 しかし、暗いことばかりではなかった。難民たちと寝起きをともにした日々―

《身近な飢えも死も、その状況が日常化した者にとっては、普段は何でもない、ささやかな喜びと慰めによって相対化される。冷えたナンの切れはしも、みなで分かって談笑すれば、何にも勝る晩餐となる。誰かが大きな木の株を拾ってきて、数日ぶりに暖炉があたたかくなった時は、皆で歓声をあげた。どんなに欠乏しても、彼らは当然のように食を分かち合い、ユーモアを忘れなかった。子供たちは栄養失調で倒れるまで明るかった。

 「生きる厳しさ」は世界中同じでも、追い詰められた場面では、人の生きざまが鮮やかに映る。人間が飢えと死に直面したとき、その品性までが堕落するとは限らない。いや、素朴な生活であればあるだけ、そこに人間の温もりがあった。この楽天性と明るさは一つの特権なのかも知れない。

 我々もまた、この温もりに支えられて活動を拡大できたのだと、今にして思われる。わずかな食糧で群衆を満たした「パンかごの奇跡」の寓話を、私は初めて理解した。》(96年12月18日会報より)

 極限状況を体験した二人は、どのような生きる指針を持ったのか。

(つづく)

(河原理子『フランクル「夜と霧」への旅』平凡社から参考にした)