ミャンマーでクーデターが起きて2年の2月1日、日本各地で国軍に抗議し、民主化を訴える集会やイベントが開かれた。
現地ミャンマーでは抗議のため仕事を休み外出を控える「沈黙のストライキ」が呼びかけられ、街の通りが閑散となったという。今も国民の圧倒的多数が国軍を忌避していることを示す。
2年たっても出口が全く見えないなか、武器をとって戦う人たちがいる一方で、不正常ながら戻ってきた日常に妥協しながら生きる選択をするものも出ている。人情としては理解できる。国民の窮乏化も進んでいるという。
国連のアンドリュース特別報告者は、「ウクライナ危機では、国際社会の協調的なアプローチがあったが、ミャンマー情勢においてはそれがない」と指摘。 手詰まりを認めた。
報告書では、ロシア、中国、インドなどに対し、ミャンマー軍に財政的な支援や物的な支援を行わないよう求めるとともに、日本にはすべての経済支援の見直しと防衛省が留学生として受け入れる軍幹部らの追放を要請している。
国軍は非常事態宣言の半年延長を決め、8月に予定していた総選挙は先送りされる見通しだ。
ウクライナの事態の陰で関心が薄れがちだが、もう一度、国軍のクーデターと今も続く残虐行為には一片の道理もないこと、ミャンマーの人々が苦境に立たされていることに思いをめぐらそう。
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中村哲医師は、2004年、「イーハトーブ賞」(宮沢賢治学会主宰)を受賞した。
中村さんは「特別にこの賞の受賞を光栄に思う」として、自らの人生を「セロ弾きのゴーシュ」になぞらえて述懐している。 宮沢賢治は、中村さんが傾倒した思想家の一人である。 以下抜粋。
(前略)
この土地で「なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か」と、しばしば人に尋ねられます。 人類愛というのも面映(おもはゆ)いし、道楽だと呼ぶのは余りにも露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。 良く分からないのです。 でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の話です。 セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。 仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。 てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける。
私の過去20年も同様でした。 決して自らの信念を貫いたのではありません。 専門医として腕を磨いたり、好きな昆虫観察や登山を続けたり、日本でやりたいことが沢山ありました。 それに、現地に赴く機縁からして、登山や虫などへの興味でした。
幾年か過ぎ、様々な困難―日本では想像できぬ対立、異なる文化や風習、身の危険、時には日本側の無理解に遭遇し,幾度か現地を引き上げることを考えぬでもありませんでした。 でも自分なきあと、目前のハンセン病患者や、旱魃にあえぐ人々はどうなるのか、という現実を突きつけられると、どうしても去ることが出来ないのです。 無論、なす術が全くなければ別ですが、多少の打つ手が残されておれば、まるで生乾きの雑巾でも絞るように、対処せざるを得ず、月日が流れていきました。 自分の強さではなく、気弱さによってこそ、現地事業が拡大継続しているというのが真相であります。
よくよく考えれば、どこに居ても、思い通りに事が運ぶ人生はありません。 予期せぬことが多く、「こんな筈ではなかった」と思うことの方が普通です。 賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。 遭遇する全ての状況が―古くさい言い回しをすれば―天から人への問いかけである。 それに対する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。 その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か、伝えてくれるような気がします。 それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません。 (以下略)
中村さんは叔父である火野葦平の著作を幼少期から読んでいたそうだが、いつもすばらしい文章を書く。 上の述懐を感慨深く読んでいるうち、この生き方に既視感を覚えた。
あの『夜と霧』を書いたフランクルではないか・・。
(つづく)