フィリピン今昔紀行―腎移植スキャンダル1

エルミタには外国人観光客用の両替店がたくさんある。

ある店に入ると、日本語で書かれたリーフレットが積まれてある。「あなたはずっと人工透析を続けるつもりですか」と書いてある。腎臓移植の勧誘である。
長田さんの死をきっかけに、取材の危険についてあれこれ書いてきたが、実は、私がもっとも危ない目にあったのは、フィリピンの腎臓移植をめぐる取材でのことだった。

当時私は、「日本電波ニュース社」のマニラ支局で特派員をしていた。
ある土曜日の朝、助手に電話で起こされた。
「きょうはオフィスに来ない方がいいですよ」。
二日酔いだったので好都合だったが、助手にその理由を聞いて、ギョッとした。
私は取材車としてよくバン・タイプの車をある旅行会社に手配してもらっていたのだが、その車の運転手が助手にうちの助手に電話をしてきて、昨夜怖い目にあったという。その運転手によれば―
日本人のお客さん3人をカラオケに送って行き、店の外で車をとめて待っていた。すると、自動小銃武装した4人の男たちに取り囲まれ、「タカセはどこにいる?」と詰問された。「タカセという人からは一度雇われただけで、住所は知らない。今は日本人旅行者をカラオケに送迎しているだけだ」と答えると、1人を運転手の監視に残し、3人がカラオケの中に入って店内の客を一人ひとり面通しした、という。

フィリピンに長く住む日本人たちに相談すると、フィリピンでは簡単に人を殺すから、すぐに逃げた方がよいという。海外に逃げることにしたが、日本直行便が取れず、とりあえず香港に行く便を押さえた。日本大使館に一応連絡したら、大事を取って、空港に行くまでの間大使館で待機してくれという。大使館に行くと、みな緊張していて、空港まで大使館のスタッフ2人が同行し、最後はタラップのところで「ご無事に」と見送ってくれた。そのまま私はマニラ支局に戻ることはなかった。

私がこんな目にあった背景はこうだ。

日本でフィリピンでの腎移植をあっせんする業者が動き出し、1988年、ついに初めての日本人レシピアントが移植を受けることになった。
ドナーはなんとフィリピンの長期刑の囚人だった。移植手術のために囚人を2週間刑務所外に出す許可をはじめ、深い政府の関与があり、どうみても事実上の国家がらみの臓器売買だと思われた。
私たちはこの動きをフィリピン側から知り、日本側からは大阪の毎日新聞が取材をはじめていた。

日本人レシピアントが払う金額は2000万円を超える。
取材の結果、囚人は「高い博愛主義の精神にもとづいて腎臓を提供します」という念書をかかされ、実際にはわずか日本円で10万円ほどの謝礼をもらうだけという実態が分かった。
私は刑務所の中に何度も入って、腎臓移植経験者の囚人をインタビューした。彼らはシャツをまくって大きな手術跡を見せ、ドナーの国籍やもらった金額について証言してくれた。
問題は、提供者が死刑や長期刑の囚人だったことだ。フィリピン人はワルであっても家族思いだ。多少でも家族に仕送りができれば、腎臓の一つはくれてやるという人が多い。つまり、囚人をドナーにすればきわめて安く腎臓が手に入るというわけだった。
その取材は、テレビ朝日ニュースステーション」、日本テレビ「追跡」、TBS特番(吉永春子ディレクター制作)と3局で番組化された。
すぐに政治問題化し、日本でもフィリピンでも問題は国会まで行った。結果、モンテンルパの所長以下、看守らが更迭された。私を探していた武装集団は、その看守グループであったと思われる。
モンテンルパ刑務所に取材に行く際、私は電話で知らせてくれた旅行会社のドライバーと車を使っていた。私の居場所を知らない看守グループは、ぐるぐるマニラ中を回って、私たちが取材で使ったその車をさがしていたのだ。相当な執念である。逃げて正解だった。
では、なぜフィリピンで腎臓移植ということになっていったのか。(続く)