渡辺京二さんの訃報によせて

 渡辺京二さんが亡くなった。お歳だからいつ亡くなってもおかしくないと思いつつ、訃報を聞いて心ががっくりと萎れる感じがした。

かっこいい人だったなあ。きっとモテただろう。(致知より)

 私にとっては、尊敬し仰ぎ見る偉人だった。「巨星墜つ」という表現があるが、この人ほどの知の巨人はもう日本には現れないのではないか。心を病んでしまったようなこの日本がこれからどう歩んでいけばいいのか、もっとお聞きしたかった。

 数年前、お会いできるチャンスがあったのだが、急な仕事ができて逃してしまったことが残念でならない。多くのことをご教示いただいたことに感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りします。

 西日本新聞の訃報記事
熊本市在住の評論家で「逝きし世の面影」などの著書で日本近代を問い続けた渡辺京二さんが25日午前10時15分、老衰のため熊本市の自宅で死去した。92歳。京都市出身。葬儀・告別式は27日午後1時、熊本市東区健軍4の17の45、真宗寺で。喪主は長女・山田梨佐さん。
 渡辺さんは中国・大連で育ち、旧制第五高等学校を経て法政大社会学部卒。日本読書新聞を経て、熊本市で著述活動に入った。宮崎滔天北一輝の評伝をはじめ「神風連とその時代」「日本コミューン主義の系譜」などの著作で大アジア主義や戦争、ナショナリズムなど日本が近代化の過程で抱えこまねばならなかった難題を考察した。
 1998年には、幕末維新に来日した外国人の滞在記などから日本近代が滅亡させた前近代の豊穣な文明を描く「逝きし世の面影」を刊行。和辻哲郎文化賞を受賞した。2010年には、ペリー来航の100年以上前から北方の蝦夷地で繰り広げられたロシア、アイヌ、日本のダイナミックな異文化接触を描いた「黒船前夜」で大仏次郎賞。
 編集者としても、詩人で小説家の故石牟礼道子さんの才能にいち早く注目し、水俣病に苦しむ患者の世界を描いた「苦海浄土」の初稿を自身が編集する雑誌「熊本風土記」に掲載。生涯の思想的・文学的盟友として創作活動を支え、水俣病闘争にも共に参画した。河合塾福岡校講師や熊本大客員教授も務めた。
 本紙には1999年に随筆「江戸という幻景」を連載。「西日本文学展望」も担当したほか、大型コラム「提論」も執筆した。》

 

本に囲まれた渡辺さん。この書庫を見たかった。

追悼記事には―
《死去した渡辺京二さんは、熊本の野にあって日本近代を問い続けた評論家だった。その思想的フィールドは広大にして射程深く、切れ味は抜群に鋭かった。それ故、ステレオタイプの見方や表層の解釈を嫌い、人物的には時に気難しくもあった。》(西日本新聞)とある。

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 このブログでも、読者があきれるほど頻繁に取り上げた。例えば―

takase.hatenablog.jp

 

takase.hatenablog.jp

 いまアフガニスタン取材のまとめでせわしくしているので、渡辺さんについてはいずれまた書こう。三浦小太郎さんが渡辺さんについておもしろい論説を書いていたので、紹介しよう。

 三浦さんには渡辺さんの全著作を読み込んで彼の思想の全貌にせまる『渡辺京二』(2016)という著作がある。こんな偉大な思想家によくもまあ、正面から挑んだものだなあと感心した。出版後、三浦さんと飲んで渡辺京二論を話し合うのが楽しみだった。
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 渡辺京二氏を追悼する番組や記事などが出ているのはうれしいし、また新たな読者が増えてほしいと思うのですが、一点、ちょっとどうしても違和感があるのは「水俣病闘争の支援者だった」的な解説が結構あること。

 いや、それはその通りで、この方は水俣病患者たちとともに最も激しく戦った人ではあるんですよ。ただ、これまで水俣を報じる最近の記事の中では、むしろ無視されてきたような気がする。それはある時期から運動から離れただけではなく、運動の最も高揚期にも次のような文章をはっきり書いていたからで、今更なくなったからって持ち上げるなら、以下のような文章をきちんと評価してほしい。

チッソを特別に悪質な資本であるかのように考える必要はない。したがって(患者と会社との)対立を資本の倫理的な悪と民衆の倫理的な善との対立とみなすこともできない。」

「(水俣を訪れる知識人が)水俣を自分たちの(精神的な)病に合わせて聖地のように賛美するのは、ほとほと滑稽な眺めであった。のみならず、そのような水俣礼賛を、今はやり文明終末論的考察の端切れや、聞きかじりのエコロジーや、ナロードニキ(民衆礼賛)趣味の辺境論議で思想めかすような言辞を見聞きするたびに、私は心中、暗い嘲笑のごときものが突き上げてくるのを抑えることができなかった」(死民と日常)

水俣病闘争の当事者は、患者とその家族たちである。それ以外のものは、絶対に当事者ではない。(中略)支援という言葉はよくない、我々は自分のこととして、水俣病闘争にかかわるものである、というものがある。気持ちはわかる。だが、君は水俣病患者ではなく、水俣病がわがことであるはずはない。」

水俣病患者を見過ごすことは、自分の人間的責任の問題だというものがいる。しかし、およしになったがいい。水俣病は人類の唯一の悲惨事ではないのだし、人類はそのような過剰な責任を負うことはできない。」

「(人間が何らかの運動にかかわる理由は)思想的なものではなく、あくまで個々人の人事的偶然であろう。日本の諺は言う『袖ふれあうも他生の縁』と。水俣病と自分がかかわるというのも、まさに他生の縁にほかならない。その袖は何によって触れ合うのか。(中略)それは人におのずから備わる惻隠の情による。」

水俣病闘争の中では、患者に対する同情に終わってはならないということが繰り返し言われてきた。そのことの意味は分かるので、私はいつも黙っていたが、心中では同情で何が悪いと叫んできた。(中略)水俣病患者はかわいそうだ、という活動家たちが最も唾棄する心情も、それが徹底して貫かれた場合は、おそらく活動家たちが夢想もできないような地点まで到達する。」(現実と幻のはざまで)

 渡辺氏は石牟礼道子氏の名作「苦界浄土」にも編集としてかかわりましたが、この本を、いわゆる反公害運動のルポのように読まれることには一貫して反論し、むしろこれは言葉の最も正しい意味で文学作品であることを強調し続けました。

 ここで引用した言葉も、「水俣病階級闘争であり日本資本主義との戦いだ」「美しい水俣の自然が汚されている」「チッソは悪魔企業」のような運動家たちの言説に対し、何もわかっていないと批判したものです。運動のさなかにこれだけのことをかけるのは正直すごいことで、この人がオルグとしても活動家としても一流の才能を持っていたことを逆に表していると思います。(三浦さんのFBより)

タリバンが女性の大学通学も禁止

 きのうの畑は一面、霜柱。

3センチもある霜柱が畑一面に

 玉ねぎの根本にはホトケノザ。冬のなか、生命力を見せつけている。
 寒かったが、秋じゃがを掘り起こしていたら汗だくに。いい運動になった。コロナからほぼ完全に復帰したようだ。

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 アフガニスタンタリバン暫定政権の高等教育省が20日、女性が大学に通うことを停止するとの通知を出した。通知書には、全ての公立・私立の大学や専門学校において、「次の通知があるまで女性への教育は停止される」と記載し、即日の実施を命じている。

22日朝日新聞朝刊

 昨年8月に権力を握り返したタリバンは、日本の中高生にあたる7年生から12年生までの少女の通学を禁止したが、小学校や大学の再開は認めてきた。

NHKニュースより

 この国では小学校でも男女別学であり、女子児童は女性教師にしか教わることができない。また、女性が病気になったり怪我をした場合は女医にのみ診てもらうことができる。だから、女性教師や女医など一定数の女性専門職は社会を回していくためには不可欠である。タリバンは政権内に高等教育省を置き、男女の教室を別にするなどの条件の下で、女子が大学で学ぶことを認めてきた。

去年、今年と10月の大学入学試験は女子も受けることができた(NHK

 しかし、中等教育を禁止しておいて大学はOKというのは、システムとして支離滅裂である。何らかの整合性ある措置が出されなければなかったが、中学高校ばかりか大学も禁止と、きわめて極端な決定になった。

タリバン最高指導者アクンザダ師の決定とされている

 私が先月取材した「地下学校」は、学校に行けなくなった少女たちの受け皿だった。100名を超す生徒たちが「修了式」で一堂に会する映像を撮影することができた。

takase.hatenablog.jp

「地下学校」には大きく2つの種類がある。一つは、個人の自宅などでひっそりと少人数を集めて、学校の科目を教えるもので、存在自体が秘密にされている。一方、修了式を取材した「地下学校」は、タリバン政権から「専門学校」の認可を得ている。表向きは女性が編み物や刺しゅう、コーランなどを学ぶ学校ということになっているのだが、それは「隠れ蓑」で、女子が学ぶことを禁止されている英語や数学、物理、歴史など中等教育の教科も教えているのだ。希望者が殺到し、先日三校目の「分校」を開校したと映像を送ってくれた。「学校」は拡大を続け、生徒数は千人を越えた。タリバンの子弟まで通ってきているという。

地下教室の授業風景(独自取材)

 この「地下学校」は、大学進学を目指して勉強に励んでいた生徒が多い。今年10月の大学入試では、この学校から25人の合格者を出したばかりだった。来春からの大学生活を楽しみにしていた少女たちの顔が思い浮かぶ。どんなにか悲しみ、怒っていることだろう

続けて「タリバンの責任を追及するために(アメリカに)何ができるのか検討する」と

つづけて「女性の参加と教育なしに国がどのように発展し課題に対処していくのか、想像するのは難しい」と(NHK

 毎日、カブールと連絡をとっているが、私が取材させてもらった「地下学校」の関係者や女生徒からは「もう、おしまい。夢も希望もなくなった」との悲痛な声を聞く。女子への大学教育の禁止から「地下学校」の弾圧へと進むとの見方も出ている。取材先の彼女らの今後が心配だ。

 また、女子教育をめぐる問題は、国際社会によるタリバン政権を承認するか、逆に制裁を続けるかということに直結する。今回の女子への大学通学の禁止措置でタリバンと国際社会とのせめぎあいが新たな段階に入った。

アフガンで亡くなった南条直子さんのこと

 あさっては冬至だ。うちの万両も赤い実をつけた。

 東京は氷点近くまで冷え込み、東北、北陸は大雪だという。山形県大蔵村肘折(ひじおり)が積雪231センチとニュースに出ていた。今秋の山形一周自転車の旅で10月1日に肘折温泉に行ったっけ。またやりたいな、自転車旅。

 22日から初候「乃東生(なつかれくさ、しょうず)」。ウツボグサが芽を出すころ。   27日からが次候「麋角解(さわしかのつの、おつ)」ヘラジカの角が生え替わるころ。
 1月1日から末候「雪下出麦(ゆきわたりて、むぎのびる)」降り積もった雪の下で麦が芽を出し始める。

 冬至からだんだん太陽が復活していく。一年の出発点でもある。「一陽来復」だ。
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 少し前の話になるが、12月7日、東京外語大の「日本:灰と瓦礫からの復活」上映会を観に行った。

右が脚本のマスリさん、左が撮影のフセインさん、中央が篠田教授

 シリアからの留学生2人が制作したドキュメンタリー映画2本「広島:世界最悪の核攻撃」と「陸前高田:3.11からの復興」を鑑賞し、脚本・編集のモハマド・マスリさん、撮影のマフムド・シェイク・フセインさん、二人の指導教授だった篠田英明さんと3人でトークをするというプログラムだった。

 映画には文化ショックを受けた。原爆と自然災害と原因は違うが、どちらも壊滅的な破壊を受けたあと、どうやってみごとに復興していったかという成功物語として描いている。その復興過程から学べるものを探そうという思いが強く伝わってくる。

 日本人はこういう視点ではぜったいに描かないし、描けない。

 この2本は、彼らが見るも無残に破壊しつくされたシリアをどうするかという問題意識から作っている。シリアもこうやって必ず復興できるから、絶望しないようにしようと自らを鼓舞しながら制作したのではないかと推測する。

 危険地の取材をどうするかという問題で、日本人ジャーナリストが行かなくてもいいじゃないか、どこか外国の通信社が送ってくる情報で済むのではないかという声が出てくる。

 二人の映画からは、その人のバックグラウンドによって、つまり日本にベースをおく人とシリア出身の人では問題意識が全く異なることを見せつけられた。もっと平たい言葉で言えば、あるものを見たときのおもしろがり方が違うのだ。

 ジャーナリズムのあり方を基本から考えさせられた。
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アフガニスタン・リポートつづき

12月5日。

 今夜のBS11の生放送ではアフガニスタンに同行した遠藤正雄さんがスタジオで語ります。

 遠藤さんは日本のジャーナリストとしては、もっとも危険な現場を歩いてきた一人で、現役唯一のベトナム戦争取材体験者。

 自らを売り込まない人なので知名度は高くありませんが、すごい人なのです。

 彼が執筆者の一人として編まれた『A LINE 地平線の旅人』(江本嘉伸、戸高雅史と共著)という本があります。「旅」を大きな地球体験ととらえるなかで、遠藤さんは「戦場」というフィールドの旅を「死」をキーワードに生々しく描いています。

A LINE

遠藤さんの記事。血なまぐさい戦場の写真も

 その中に、11月27日の投稿で紹介した遠藤さんの従軍体験と南條直子さんの死について書いた箇所があります。当時の雰囲気も伝わってきます。以下引用。

パキスタンの古都ペシャワールカイバルホテルという怪しい安宿がある。このホテルは、1979年、ソ連軍のアフガニスタン侵攻から89年の撤退まで、多くのフリーランスのジャーナリストをアフガンに送り出した。彼らの写真の多くが、『ニューズウィーク』や『タイム』のページを飾っていた。逆に帰らぬジャーナリストも数多くいた。その中のひとりが南条直子さんだった。彼女は、不幸にもその帰らざる一人になってしまった。

 1989年10月、私はジャララバドハイウェイを見下ろすタンギにいた。その冬2回目の従軍で、アフガニスタン政府軍とソ連軍が敷設した分厚い地雷原を抜け戦闘配置に着いた。その時思った。この地雷原で南条さんは地雷に触れ命を落としたのだ、と。彼女の死は、即死ではなかったと聞く。苦痛と死の重圧に苛まれたに違いない。もし意識がはっきりあり、死を恐怖と捉えていたならば、辛い死だったろう。

 ゴルゴダイ(花)と呼ばれた南条さんの墓は、墓地から一つだけ離れてジャジのゲリラ墓地にある。その墓のすぐ隣に落ちたスカッドミサイルは、南条さんの死の眠りを妨げるように巨大なクレーターをつくった。その振動と爆風で墓標が傾き、墓の一部が崩れていた。南条さんは、死の瞬間何を思い、何を見たのだろうか。南条さんの墓標は、日本人の武道家が立てたものだ。その脇には、彼女が運ばれたロープで編んだ血染めの担架が打ち捨てられていた。」

 何人もの知り合いの死を間近で見てきた遠藤さんの、重い戦場の「旅」の記録です。

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 このあと、私は「南条さんの墓標を立てた武道家」に電話して事情を聞いた。彼は私の古い知り合いだった。

 彼は南条さんとパキスタンペシャワールの宿で知り合い、「もう一度アフガンに入る」という南条さんと別れて帰国したら、幾日もたたないうちに南条さんが亡くなったニュースを知ったという。

 彼がアフガンに戻ったときにはすでに南条さんは埋葬されていたので、丸太を調達して名前を刻んで立てておいた。その2年後にご両親もともなって何人かで現地に向かい、遺体を掘り起こして火葬し、遺骨を持ちかえった。このとき、日本から持って行った墓石をたてた。
 その後、その墓石が破壊されたので、ふたたび日本から有志が行って、セメントでしっかりかためて墓を作り直したという。つまりお墓は3回作られたことになる。

 これでアフガン・リポートは終わります。お読みいただきありがとうございます。

今回のお土産で買ってきたバルフ地方のアンティークじゅうたん

 

アフガニスタンの航空会社に女性CAがいた

 ヨーロッパで黒く沈んでいるのはウクライナだ。

NHKニュースより

 ロシアがインフラ特に発電所や送電網など電力インフラを狙って攻撃する結果、ここ2カ月近く、ウクライナでは大規模な停電が続いている。手術中、停電になって自家発電で危うく助かったなどのエピソードがニュースで流れるたび、かの国の人びとの苦しみに同情する。

 電気だけでなく水や暖房もなく、ガスがなくて調理もままならない家が増えているそうだ。インフラを集中的に攻撃すること自体、戦争犯罪だとの指摘があるが同感。

ロシア軍は博物館や美術館も略奪している。美術館では作品の8割が盗まれ、博物館では最も高価な絵画やコインなどが狙われたという(トカチェンコ文化情報相)

医療施設を狙うのはロシアの常套手段だ。これでウクライナ国民を「ナチスから解放する」?(NHKより)

 市民生活が極度にひっ迫するなか、ウクライナでは政府に対して不満が寄せられてもよさそうなものだが、逆にロシアと徹底的に戦おうと国民の士気はいっそう高まっているようだ。

 最新の調査で、ウクライナはロシアが占拠した領土を取り戻すまで戦うべきだとする意見が85%に上り、これまでで最も高くなったという。

 戦争自体は悲惨な現象で早く終わってほしいが、ウクライナ国民の抵抗の精神にはいつも感銘を受ける。さらに応援します。
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アフガニスタン・リポートつづき
11月29日

 おかげさまで、無事に帰国しました。

 アフガニスタンのたくさんの人々にお世話になった。

 政権が「邪悪」でも一人ひとりは「いいやつ」で、好きになった。

 もっともこれはツーリストとしての好感で、もっと深く彼の国に関われば、汚い面も見えてくるのだろう。

取材現場に行くと、必ず一緒に食事をしていけ、お茶を飲んでいけと誘われる。客人を大事にする文化だ。ペシャワール会の新しい用水路の建設現場にて。遠藤さん(左)と工事のエンジニアたち。

 私はこれまで自社のスタッフをアフガニスタンに派遣して番組を制作したり、フリーランスをプロデュースしたりしてきたが、自分自身は今回が初めてのアフガニスタンである。
 とても有意義な取材ができたことを同行のジャーナリスト、遠藤正雄さんに感謝している。

 取材にずっと付き合ってくれた通訳と運転手にも感謝。

通訳兼ガイド。スマホで家族写真をいつも見ている。家族をほんとうに大事にしている。

運転手。やはりスマホに家族写真。仕事と家族の矛盾はない。だって家族のために仕事してるんだから。

 アフガニスタンでは待ち時間が長く、その間、彼らと雑談したが、これがとてもおもしろかった。

 ある時、通訳が「私のいとこに著名人がいる」という。ハトル・モハマドザイ准将。この国初の女性パラシュート兵にして女性で初めて将軍に抜擢された軍人だ。

ハトル准将(右)。女性活躍の代表として戦争の正当化に利用された。2014年の国際婦人の日に米国の将軍と。

 米国や西側メディアは、女性活躍の代表として彼女の存在をアピールしたという。
 米国は、オサマビンラディンを匿っていることを理由にアフガニスタンに侵略したのだが、そのうち、戦争目的を「人権」と「民主主義」のためだと言い出し正当化をはかった。それにぴったりの活躍する自由な女性としてもてはやされたのだという。

 2001年に米軍によってタリバンが排除され、その後の20年で女性の社会的進出が促進され、多くの女性に恩恵がもたらされたのは確かだけれど、歴史の文脈をしっかり把握しておくことも大事だと思う。

 このハトル准将、去年のタリバンの権力掌握でいったんは外国に逃げたが、馴染めず、今はカブールに戻って、ソ連時代に作られた古いアパートにひとり寂しく暮らしているという。
 いまもタリバンは彼女を処罰していない。やはり96年以降の第一次タリバン政権のころとは違っているようだ。

 カブールからドバイへと乗った飛行機は民間会社の「カムエアQam Air」で(この他に国営のカリタスエアがある)、女性の客室乗務員、CAがいた。

 女性の勤労に否定的なタリバン政権でもいわゆるスチュワーデスがいるんだ、と意外だった。
 遠藤さんによれば、第一次タリバン政権では、女性乗務員は無し。次のカルザイ政権になると、女性乗務員の中にはスカーフも被らない者もいたという。

 今は黒いヒジャブ(スカーフ)とマスクをつけてサービスしていた。

 足して2で割った感じだが、最後のフライトが、今のアフガニスタンを象徴しているようにも感じた。
 これからは取材のまとめをなるべくいろいろなメディアで紹介していきたいと思います。皆さんよろしく。

ジャララバードには、ナカムラ・スーパー・ストア(NSS)というスーパーもあり、ナカムラはいろいろなところにネーミングされている。

 

「望むのは第一に平和、次に仕事」とカブール市民

12月4日が中村哲さんの命日だということもあって、メディアでも中村さん特集がいくつか見られた。

 「朝日新聞」では目についたのでこんな記事がー

東部ジャララバードの襲撃事件の現場近くに、タリバン政権が「ナカムラ」広場を作った。彼のことはアフガニスタン人全員が尊敬しているとの地元の声を紹介。(11月29日朝刊)

30歳のとき、中村さんの講演で、「誰か一緒にやってくれませんか」との呼び掛けにただ一人手を挙げ、それ以来現地へ。女性が肌を隠すので「らい病」の発見が遅れるため、女性スタッフが求められていた。フローレンス・ナイチンゲール記章を8月に皇后から手渡された。(12月1日朝刊)

3年前の事件後に中村さんの存在を知った若者たちが、ぞくぞくと会に加わっているという。ペシャワール会の会員・支援者は2万6千人。この3年で1万人増えた。(12月5日朝刊)

 それでも中村哲さんの精神、哲学のほんとうのすごさはまだ知られていないと思うので、今後もせっせと発信し続けたい。
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 アフガニスタン・リポート続き

11月18日(金)アフガニスタン5日目。

 ゲストハウスの朝食でパキスタン人に会った。もともと先祖はアフガニスタンにいたが祖父の代にパキスタンペシャワール(国境に近い町)に移住したという。

 彼は民族的にはパシュトゥン人。パシュトゥン人はアフガニスタンの主要民族でもあり、国境の両側に住んでいる。「自分の国にいるようだ」と彼は言う。実際、ペシャワールはもともとアフガニスタンの一部だった。

 アフガニスタンには、マイクロファイナンスの仕事で出張してきたとのこと。マイクロファイナンスと言えば、2006年にノーベル平和賞を受賞したバングラデシュグラミン銀行が有名だが、貧困層を対象にした少額融資のこと。

 彼はシステム構築のエンジニアで、「去年の政変で崩壊したマイクロファイナンスのシステムをもう一度立て直す仕事」に従事しているという。アフガニスタンマイクロファイナンス事業にはIMF世界銀行が出資しているそうだ。 

 政変で壊れた制度やシステムの復旧を進める人がここにもいた。ここは、かなり格下のゲストハウスだがいろんな人に会えておもしろい。

 イスラム圏でもマイクロファイナンスは広まっているようだが、シャリア(イスラム法)によれば「利息」は禁止されるはずなので、どうやって融資を回収するのか。
 このパキスタンの彼に聞くと、インド風の巻き舌の流暢な英語で縷々説明してくれたが、半分くらいしか理解できなかったのであとで調べよう。

 きのうは、冬を迎えて一層厳しさを増す庶民の暮らしに触れたが、貧困層向けに国連機関WFP(世界食糧計画)が救援に乗り出している。

 取材したのはカブール郊外での現金給付と食糧配給のプロジェクト。

 WFPの基準で選ばれた貧困層の人たちが、1カ月に1回、1家族当たり現金4300アフガニ(約50ドル)か、または同額の食糧(小麦粉、マメ、食用油、塩など)かのいずれかを受け取ることができる。

WFP食糧配布。氷の張る早朝から多くの人が並んでいた。

WPFの現金支給。


 朝8時半に現場に行くと、氷点下の寒さのなか、長い列ができていた。配給券を持っていれば必ずもらえるのだから急く必要はないだろうに、6時半に来たという人もいた。それだけ切実なのだろう。

 ほとんどの人が失業中だ。かつて公務員で、タリバンが奪権してクビになった人も列に並んでいる。みな口々に「仕事が欲しい」という。失業したからお金がないという分かりやすい話である。  

 ただその先の事情はさまざまで、WFPに支給された食糧でほぼ1カ月食いつなぐという家庭もあれば、家賃が月に4000アフガニの9人家族のところは、支給金4300アフガニのほとんどをそれに回すという。多くの家庭で病人を抱えているが、薬が買えない。貧困と病気はセットである。 

 家賃、医療、教育、冬の暖房・・・暮らしの困難は多重、多様で、食糧を支援すれば済むことではないのだが、それでも支援を受けている人々にとっての命綱になっていることは確かだ。

 ウクライナ戦争のなか、国連なんてクソの役にも立たないという罵詈もわからないではないし、国連の官僚主義や無駄遣いへの批判も認めるが、こうした現場を見ると、やはり国連の存在意義は否定できないと思う。

 アフガニスタンでのWFPのスタッフ募集にはこう書かれていた。
Selection of staff is made on a competitive basis, and we are committed to promoting diversity and gender balance.

「スタッフ採用にあたっては競争による選抜とし、我々は多様性とジェンダーのバランスを促進していく」

 民族間の共存と女性のエンパワーメントを主張するような文言に、タリバンへの牽制を感じる。「国際社会はこういう方針でやらせてもらいますよ」と。

 支給会場ではWFPのジャケットを着た多くのスタッフが働いていたが、彼らのほとんどは現地のNGOで、WFPにプロジェクトを委託されている。
 これはアフガニスタンNGOを資金的にも助けることになる。現地NGOを存続、活性化させることは、タリバンの偏狭な統治に楔(くさび)を打ち込むという意味もあるだろう。

 ところで、そもそもの問題。

 タリバン政権を国家承認した国はなく、国際社会は制裁を科し続けている。今は少し緩んだが、一時は海外からの送金さえできず、故中村哲医師のペシャワール会も日本からわざわざ人を隣国まで派遣して現金を運んだという。

 制裁で封じ込めておいて、同時に人道支援を急げという国際社会。この矛盾をどうするのか。 

 厳しい暮らしを強いられているアフガニスタンの人々は、私たちにこの国にどう向き合うかという大きな課題を投げかけている。

 食糧支給を受けたラマザンさんという65歳の男性の家に付いていった。
 交通が不便で下水道のない丘の上の自宅に妻、息子2人、娘1人、孫1人と6人で暮らす。
 ラマザンさんは以前、カブール空港の近くに住んでいたが、内戦で家が破壊され、移ってきたという。

ラマザンさんと妻。日本人に似た顔だちだ。

 ラマザンさんはパン屋で働いていたが失業、息子たちは日雇いで、仕事にあぶれることも多く、家族の月の収入は8000アフガニ(約90ドル)。家賃の2000を引くと6000アフガニ(約70ドル)で6人が暮らさなければならない。とにかくちゃんとした仕事が欲しいとラマザンさんはいう。

 この一家はハザラ人で、日本人に風貌が似たモンゴル系。少数派のシーア派で、IS(イスラム国)からはテロの標的になり、パシュトゥン人中心のタリバンからも迫害されてきた。

 ハザラ人は女性も比較的大らかで奥さんがインタビューを撮影させてくれた。

 タリバンが女性を学校や職場から排除していることに怒りながらも「いま一番望むことはなんですか」との質問にこう答えた。

「第一には、この国が平和になること、その次に仕事があって収入を得られること」

 この順番がとても印象的だった。
 取材はつづく

休日の公園。タリバン兵同士が手をつないで散歩。異性とは手を繋げないが同性はOK

 

冬を迎えて困窮するアフガニスタンの庶民

 喪中はがきが届き始めた。今年もはやく過ぎたなあ。

 いま、アフガン人の人権活動家、ファティマ・ギラーニさんが来日していて、NHKのインタビューに答えていた。

ファティマ・ギラーニさん。7日の「国際報道」より

 ファティマさんは、前政権で赤新月社赤十字にあたる)の総裁をつとめ、2018年からは和平交渉団の一員としてタリバンとの交渉にあたった人だ。

 女性の権利拡大にも努力してきた彼女が、タリバンへの敵視政策ではなく、関与を強めるよう国際社会に求めている。このことがとても興味深かった。

 まず、アフガニスタンの現状についてー

「人々は苦しんでいます。銀行は閉鎖され仕事はありません。アフガニスタンの中間層は飢えています。最大の懸念は不確実性です。次に何が起こるのか、毎日わからないのです。」

 そして、タリバンによる女性の権利制限を憂慮する。タリバンは女子の中等教育を禁止するだけでなく、最近は特定の公園や遊園地への女性の立ち入りを制限している。

アフガニスタンには教育を受けた女性たちがいます。女性たちには国のために奉仕する責任があります。それを妨げるのは間違っています。
 ただ国際社会は(女性の問題を)政治的な争いにしないでほしい。問題解決に向けて(タリバンとは)入念に計画した上での巧みな交渉が必要です。」

 女性の権利の問題だけに注目して制裁を科し続ける国際社会への批判である。

「いま直面している問題からまずは向き合い始めましょう。少しづつでも進めば国の正常化国際社会からの承認へと前進します」

 インタビュアーが、こうなったのは誰の責任ですか?と聞くとー

「みんなの責任です。タリバン、前の政権、各部族の指導者や長老たち、そして男性も女性も全員にアフガニスタンを立て直す責任があります。当然、大国の責任でもあります。」

 ファティマさんは、タリバンと対立するIS(イスラム国)の台頭を懸念し、国際社会はタリバンとの対話を急ぐべきだという。

「好きであろうと嫌いであろうとアフガニスタンの現政権はタリバンです。関与しなければ現状を改善できません。改善は(タリバンに)関与して初めて可能となるのです。」

 この結論は、私がアフガニスタンの取材で思ったこととほぼ一致している。

 日本がアフガニスタンにどう向き合ったらいいかについては、おいおい書いていこう。

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 アフガニスタン・リポート続きー

カブール俯瞰

11月17日(木)

 アフガニスタン4日目。今朝は水たまりに氷が張っていた。もう冬だ。

 取材許可が出たので、きょうから本格的にカメラを回せる。

 出がけに近くの部屋の青年(たぶん18歳くらい)に廊下で挨拶。米国に移住するため一家でこのゲストハウスに滞在しながらパキスタンのビザ手続きをしているのだという。懸命に勉強したのだろう、英語がとても上手だ。

 うまくいくといいね、と笑顔で別れたが、これから大変なこともたくさんあるだろうな・・。

 

 そもそもの話をすると、日本はこの国の前政権を20年間にわたって7500億円超という莫大なお金を支援して支えつづけたのだった。日本国民一人当たり7000円。米国に次ぐ最大のスポンサーだった。

 日本が全面的にバックアップした政権が崩壊、というよりほぼ自壊したことで、無数の人々の運命を狂わせているのだ。去年の政変は、日本にとって他人事ではない。当事者の一員と言ってもいいのではないか。

 どのように「責任」をとったらいいのかを考えなくてはならないと思うのだが、みなさんはどうでしょうか。

 きょうはアフガニスタンの厳しい経済状態、人々の大変な暮らしの一端を紹介したい。

 カブールは渋滞がひどい車社会だが、ガソリンの急騰(2.5倍)が輸送関係の店や人を直撃している。穀物を扱う店で聞くと小麦は政変以降2.5倍にコメや食用油は2倍に値段が上がっているという。

 取材中の私たちに、小さな女の子2人がガムを買ってくれと近づいてきた。学校には行っていないという。なぜと尋ねると、お金がなくてカバンやノートが買えないから、お父さんが病気だから、と答える。

ガム売りの少女たち

 その話が本当かどうか分からないが、私たちの通訳は黙ってガム2個を買い、帰りかけた少女たちを呼び止め、買ったガムをそっと返していた。その一連の動作が実に自然で、この国の人には喜捨が身についているのだなと感心する。

車に近づいてきて煙を吹きかける少年。厄除けの意味があり、これでお金をくれという。ここでも通訳は喜捨していた。

 バザールを訪れた。これまで見たことのない広さと人の多さに心底驚く。

バザール。これはほんの一部で、私がこれまで見たことのない規模だった。

 私が行ったイスラム圏はイランやリビア、トルコ、ヨルダン、UAEなどごく限られているが、ここまでの規模のバザールが他国にあるのかどうか。世界一なのでは?

 通訳が、ここはアフガニスタン全土への卸売りセンターで、「無いものは無い」と言う。印象的だったのは愛玩用の小鳥を売っている一画。四方八方から鳥の鳴き声に包まれて歩くこと数十メートル。異次元のような空間だった。

 ここに過去にはない売り物が登場した。食べ残しのナン(パン)である。

バザールで食べ残しのナンを売る商人。7キロ袋で約300円。

 私が入ったレストランではほとんどのお客がナンをの切れ端を残していた。これは普通に見られることのようで、大量の食べ残しつまり残飯は捨てられるか、家畜の餌になっていた。

 ところが、今は生活苦のために食糧として購入する人が増えているのだという。社会の新たな需要はまずは「無いものは無い」バザールに現れるということだろう。

 ほんとうに貧しい人たちは、この食べ残しナンを買い、細かくしてお湯にいれふやかして飢えをしのぐそうだ。

 これから冬が来ると、食べることの他に、暖房の心配もしなくてはならない。

薪や石炭を売る会社。石油が高騰し、庶民は薪を求めるので売れ行きは良いという。向こうには冠雪した山々。


 国連機関は、アフガニスタンへの緊急支援を訴えている。

 「私と関係ない、遠い国の話」で済ませていいのか。

 

カブールの宿の朝食にて

 世界平和統一家庭連合(統一協会)への宗教法人法に基づく質問権行使、そして被害者救済法成立と事態が進んでいるように見えるが、「統一協会の問題が不思議な方向に行ってる」と指摘するのは寺島実郎氏だ。

 「反社会性」が問題にされて、「宗教法人として存続させるか」という文科省の話に行っちゃってるんだが、本質的な問題は、この団体が持っている「反日性」だ。

 例えば1992年に文鮮明最後の訪日というのが行われた。海外で収監されてた人は入国できないはずなのに超法規的な入国をやっている。要するに日本の政治の上層部が動いてるんです。この団体に日本の弱者から年間数百億円(を出させて)、お金を海外に送るということをやって、国益、国民の財産が損なわれているんですよ。 

 こういう問題について、内閣府なり外務省なりがしっかり調べて国民に説明しなければならないというのがこの問題の本質だと思う。例えば愛国だとかナショナリズムを語っていた人たちが反日的な団体と連携しているのかと国民はため息つく思いで見ている。(11月のサンデーモーニング

 歯がゆいかぎりだ。
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11月16日(水)

 アフガニスタン3日目。日本との時間差は4時間半。 

 暗い早朝、大音響のアザーンで目が覚める。毎朝停電でエアコンが切れているので寒い。

 ナンと紅茶のシンプルな朝食。ここで同じ宿に泊まってる客から聞く世間話が実におもしろい。これは後半に書こう。

 カブール市内を車で回ると、王様でも住んでいたのかと見まがうゴージャスな白亜の殿堂が目に飛び込んでくる。これが結婚式場だというから驚く。

ど派手な「宮殿」が街のあちこちに

 結婚式は参加する女性にとって最大の娯楽だそうで、派手なおしゃれをして、普段のうっぷんを晴らすように大騒ぎになるそうだ。
 「男性の目を気にせず、思い思いの衣装に身を包み大音響の音楽に合わせて踊り明かす」(共同通信記者、安井浩美さんによる) 

 タリバン政権になってから、結婚式でも音楽は禁止になったが、女性のホールだけはお目こぼしで許されると聞く。
 男性はもちろん入れないが、一度見てみたいものだ。

 このド派手な「結婚宮殿」、私がきょう一日で見かけただけで8カ所を数えた。 
 前政権の20年は、引き続く内戦と共に、消費文化の大波がこの国を覆ったのだなあと感慨深く眺める。

丘の上まで家が建ちならんでいる。水はタンクトラックが売りに来るそうだ。

白いスカーフをかぶった少女たちがかわいい。

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 さて、朝食をともにした人々の話。

ゲストハウスの食堂。朝は停電なので窓を開けて食事。正面中央がこの国に20年いるイラン人。

 

 一昨日は国連のワークショップに参加しに地方からやってきた3人がいた。
 政変で幹部を中心にかなりの国連スタッフが逃げたので、いま新人を研修して補充しているようだ。
 その一人は「自分一人なら我慢できても、子どもたちのことを考えたら、外国に逃げたくなる気持ちもわかる」と言っていた。彼には海外に移住できない事情があるのだろう。

 国連の3人がチェックアウトし、彼らがいた小さい少し安い部屋に移動。安くなったといっても25ドル。日本円に換算すると何でも高く感じる。

 長期滞在客のイラン人がいた。

 もう20年もイランの通信会社の仕事をしているそうだ。アフガニスタン公用語はパシャトー語とペルシャ語ダリ語)だから言葉には不自由しない。
 イランの企業はこの国に根を張っていて、政権が変わっても西側の企業のように逃げ出したりしないようだ。

 西部のヘラートからきた薬局経営者

 父親が80歳になって代替わりするため店の名義を息子の自分に変更しに首都まで出てきた。簡単な手続きに3時間も待たされたという。

 今のアフガニスタンには、「ルールがないというルール」があるんだよ、といって笑う。
 彼が言うには、前政権の公務員の多くが辞めさせられて、タリバンが連れてきた人が取って代わったが、やり方を知らないのでてきぱき進まない。時間にルーズでだらだら会議をやってる。以前と比べて効率は3割くらいに落ちたのでは、とのこと。

 私も、取材許可の件で行った外務省の職員たちが、おしゃべりして笑い合ったり、ずっとスマホをいじってたり、ティーカップを手に私信らしき手紙を読み耽っていたり、仕事らしい仕事をしていないのを目撃している。

 これに対して、前政権の役所は、書類を持って行くと「今日はできない」と突っ返された。そこで賄賂を渡すとすぐに手続きが済んだ。

 二つの政権を比較したうえで彼はこう結んだ。

「民衆にとってはタリバン政権の方がいいと私は思う」
 あくまである個人の意見である。

 ところで、この人、自転車乗りでヘラートにあるサイクリングチームのメンバー。マウンテンバイクもロードバイクもやる、こないだは14日間のツアーを完走したと誇らしげだった。 

サイクリングチームのインスタグラムを見せてくれた。

 紅茶を飲みながら客同士でダベっていると「ここでほんとにとんでもないことが起きたのか?」とふと思ってしまうのは、私がまだダークサイドを見ていないからか?

ゲストハウス前の通り

昼食。緑の液体はヨーグルト。

昼食を食べていると食堂にカルダモン売りがやってきた


 懸案の取材許可がついに出て、明日からは大っぴらにカメラを回せることになった。おかげさまです