横田滋さんの逝去によせて3-続「めぐみさん目撃証言」のスクープ

 「目に入れても痛くない」ほど可愛い、まだ中学1年、13歳の娘、めぐみさんが突然行方不明になった。
 その失踪後の経緯について、滋さんが1999年初頭に書いた文章がある。

 滋さんらしい簡潔で抑制された表現ながら、周りの動きとともに滋さんと家族の心境もよくわかるので紹介したい。

 《めぐみは、昭和52年11月15日、部活のバドミントンの練習を終え下校途中、自宅近くで行方不明になりました。

 いつもの時刻を過ぎても帰宅しない娘を案じ、妻は部活の友人に電話で問い合わせたり、先生方と一緒に近くの空地や海岸などを探しましたが見つかりません。これまで学校帰りに寄り道をしたことは一度もなかったので、私は、事件に巻き込まれたと直感し、その日のうちに警察に捜索願を出しました。

 警察はすぐに駆けつけ、警察犬2頭で友人と別れたところから臭いをたどりましたが途中で消えており、また、周辺から学生鞄、ラケットが入った赤いスポーツバッグなどの所持品も見つかりません。翌日早朝からは機動隊も出動して海岸、防風林の中など広範囲を徹底的に捜し、後には、船、ヘリコプター、ダイバーによる捜索も行われたのですが、何の手掛りも発見できませんでした。自宅には、身代金目的の誘拐にそなえて電話の逆探知機を設置したうえ、捜査員が3交替で泊り込み、周辺には覆面パトカーが張り込みました。

 めぐみが帰らなかった日から、いつ帰ってもよいように、しばらくは玄関の鍵は掛けず、門灯も新潟にいる間ずっと一晩中燈しておりました。帰ってきたときに真っ暗だと自分を待っていないと思い、入りにくいだろうと考えたからです。テレビの家出人捜しの番組にも4回出演し、「元気なら帰っておいで。見かけた方は情報の提供を」と呼びかけましたが、何の反応もありませんでした。新聞や雑誌でめぐみによく似た写真を見つけると、事情を話して身元を確かめたり、拡大写真を見せていただいたりしましたが、いずれも他人の空似でした。戸籍・住民票を移しておらず、中学生や高校生では雇うことろもないだろうから、幸せに暮らしているはずはないと思う一方、記憶喪失になり親切な方に保護されているのではと淡い期待を抱き、こうしたことをつづけました。

 めぐみがいなくなってから、妻は「私の育てかたが悪かったので家を飛び出したのだろうか」と何度も言いました。私は「そんなことはない、事件に巻き込まれたのだろう」とその都度答えましたが、事件に巻き込まれたのなら生命が危ないわけで、どちらの答えにしても良いものではありません。夫婦の会話の中に、めぐみの話題が出てくることは、徐々に少なくなっていきました。私たちは、家出であって欲しいと願っていました。帰ってから住みにくいのなら、私たちの実家に預けたり、アメリカに住む知人のところに住まわせることも考えたりしました。

 めぐみの失踪後、子どもたちが以前から欲しがっていた、シェトランド・シープドッグの仔犬を飼いました。心配事ばかりしている2人の弟の気を紛らすためです。めぐみも動物が大好きでした。リリーと名付けた犬は、めぐみの帰国を待てず、平成7年に癌で死にました。15歳でした。めぐみと一緒に暮らしたのは13年。リリーと過ごした時間のほうが長かったことになります。》

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1998年11月15日、めぐみさんが拉致された日にかつての自宅前で。建物は取り壊され、格子戸の門だけが残っていた。玄関の鍵はかけず、門灯は朝までつけっぱなしにしていた。

 突如「神隠し」にあったように消え、生死もわからずに時間が過ぎる。あらゆる可能性を想像し、ああでもない、こうでもないと、どうどう巡りをしながら、そのたびに打ちのめされる。
 このつらさを滋さんたち拉致被害者の家族たちは、へびの生殺しのようだという。死んだと分かれば、悲しみのあとに諦めもつくが、滋さんたちは、もっていき場のない苦しみが延々と続くのである。

 失踪から20年目にもたらされた、「北朝鮮に拉致された」との情報。

 滋さんは《「生きていて良かった」と暗闇で一条の明かりをみたような気持でした。しかし救出する手立てが見つからず、心労は変わりません》と明暗こもごもの心境だったという。苦しみが終わることはなかったのである。

(以上の引用文章は、拙著『娘をかえせ息子をかえせ―北朝鮮拉致事件の真相』旬報社より)
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 先日からの続きで、「めぐみさん目撃証言」取材の顛末。

 横田滋さんは、1997年1月21日、永田町の参議院会館で石高リポートを読み、めぐみさんが北朝鮮に拉致されたとの確信をもった。その後、横田さんの自宅を訪れた石高氏本人から直接に説明を受けている。

 石高氏は韓国に亡命した北朝鮮工作員の証言を、韓国情報部の幹部から伝え聞いている。画期的な証言ではあるが、これはあくまで「又聞き」の情報である。

 これに対して、2月4日の元北朝鮮工作員安明進氏のインタビューは、本人が語った直接の目撃証言である。このインパクトはきわめて大きかった。

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1997年当時の安明進

 証言の重要な部分としては―

 「朝鮮労働党工作員の養成所である『金正日政治軍事大学』の式典で(めぐみさんらしい日本女性を)何度か見た」

 「私が在学中の88年から91年にかけて」の時期だった。

 (その女性は)「25歳から27歳くらいに見えた。彼女はとても可愛かったので『もう結婚しているのかな』などと仲間で噂しあっていた」

 (身長は)「160センチくらい」

 「金正日政治軍事大学では、重要な記念日に式典があり、大会議場に学生や職員が集められる。日本人の教官が10人くらいいた。うち女性は3人だった
 88年10月10日の朝鮮労働党創立記念日だったと思うが、(私が)真ん中の列の前方に着席して、式が始まるのを待っていると、私たちを指導していた教官が、彼女は自分が日本の『ニイガタ』から連れてきたのだと言った。私たちが首をひねって後ろを見ると、ひとりの女性が入ってきて右側の列のまんなかくらいに座った。
 日本人はいつも最後に会議場に来るのだが、彼女はその日一番遅く入ってきた」

 「はっきり『ニイガタ』と言った

 (連れてきたのは)「70年代だということだった」

 (その指導教官は)「大学の11期生だ。私は25期だから、大先輩にあたる。卒業後、彼は清津(チョンジン)連絡所の工作員をしており、そのあと大学に戻っていた。
 清津は日本に対する工作拠点だ。
 彼自身が新潟に「浸透」した際に、その女性を連れてきたと言った

 「拉致してみるととても幼く、激しく泣くのを見て、あとで後悔したと言っていた」

 (目撃した当時、その女性は)「他の日本人と同じく、工作員の『日本人化』の教育をしていたはずだ」

 (彼女は)「もう一人の日本人女性と仲がよく、よく手をつないで歩いたり、笑い合ったりしているのを見た。他の日本人たちと共同生活をしている様子だった」

 (北朝鮮は食糧事情が悪いが)「工作員の養成部門は、国家から特別の待遇を受けているから、(彼女たちの)生活自体は恵まれているはずだ」

 

 安明進氏の証言からは、北朝鮮工作員が日本人を拉致し、拉致された日本人が工作員の「日本人化」の教育をさせられているという構図が見えてくる。

 「日本人化」で思い出すのは、1987年の大韓航空機爆破事件で爆弾を仕掛けた北朝鮮工作員金賢姫(キムヒョンヒ)が「蜂谷真由美」名の偽造旅券を使い、日本人女性を装っていたことだ。
 金賢姫工作員が日本人として振舞うことができるよう、日本の言葉から化粧の仕方、流行歌まで教育することを命じられたのが、拉致被害者田口八重子さんだった。 

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 拉致被害者は、恐るべき人権侵害の犠牲になったうえに、テロを含む秘密工作に加担することを強いられるという二重三重の悲惨な境遇に置かれるのだ。拉致とはこれほど残酷な犯罪なのである。

 安明進氏が語る工作員養成所の年に数回の「式典」には、実は「よど号」犯の何人かも参加していた。安氏らが「日本から来た革命家の先生」と呼んだ「よど号」犯たちは、横田めぐみさんたち拉致被害者と式典に同席していたことになる。安氏によれば、二つのグループは離れた席に座っていて交流があるようには見えなかったという。
 
 さて、安明進氏は「大学」卒業後、工作員として、軍事境界線を越えて韓国に「浸透」する作戦に従事したさい、韓国に亡命している。

 では、石高リポートの情報の出元になった、亡命した「北朝鮮工作員」と安明進氏は同一人物なのだろうか。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて2-「めぐみさん目撃証言」のスクープ

 横田滋さんとのさまざまな思い出がよみがえってくる。

 10年前、酔いつぶれた滋さんを、札幌から川崎の自宅まで「お届け」したことがあった。
 2010年9月、札幌でひらかれた「拉致問題を考える道民集会」で、滋さんと私が講演した。高橋はるみ知事や自治体幹部のほか、マルクス主義の立場から『拉致・国家・人権―北朝鮮独裁体制を国際法廷の場へ』 (大月書店)を書いた中野徹三氏など、幅広い市民が参加して盛況だった。

 懇親会には滋さんの出身校、札幌南高時代の同期生が何人も顔を見せた。高校の一年先輩の作家、渡辺淳一が、自殺した同級生を書いた小説『阿寒に果つ』の話で盛り上がったのを覚えている。拉致の話は一つも出なかった。
 故郷で、なつかしい仲間と思い出を語ってよほどうれしかったのだろう、お酒がすすんだ。
 お開きになった後、へべれけになった滋さんと一緒にタクシーで空港に向かった。空港に着くと、滋さんには酔い覚ましにロビーで待っていてもらい、私がカウンターに二人分のチェックインをしにいった。
 戻ってみると滋さんがいない。売店やトイレなども探したが見つからず、空港の職員に届け出た。すると、滋さんは医務室で介抱されているとのこと。ロビーの椅子から転げ落ちている滋さんを職員が見つけて運び込んだという。

 便を一つ遅らせることにし、しばらく休んだあと、滋さんは車イスに乗せられて機内へ。羽田に着いたら、そこでも車イスが待ち受けていた。足元のおぼつかない滋さんをタクシーに乗せ、川崎に向かった。
 雨の中、早紀江さんが、マンションの1階まで下りて傘をさして待っていた。
 「おとうさん、お酒をのんじゃだめっていったでしょ。私が付いていないとこうだから」と叱られ、滋さんがしゅんとなっていたのがおかしかった。

 いくら注意されても、お酒には手がでてしまう。そして飲みだすと止まらなくなってしまう。滋さんが長年耐えてきた、私には想像もつかない苦悩と強烈なストレス。飲まずにはいられなかったのだろう。

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めぐみさんは弟たちをとても可愛がっていたという

 拉致問題の集会で、滋さんが会場を沸かせたことがあった。
 2015年10月、川崎市平和館の「拉致被害者家族を支援するかわさき市民のつどい」でのこと。当時の拉致問題担当大臣山谷えり子氏が挨拶し、テレビ、新聞がたくさん取材に来ていた。

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 この日は横田さん夫妻と私が対談することになっていた。

 孫のウンギョンさん一家とモンゴルで面会したのが1年半前の2014年3月で、その後は拉致問題で進展がまったくない。どんな話を引き出せばよいか悩んだ末、悲しい話に聴衆がハンカチで目頭を押さえるいつものパターンはやめて、きょうは二人に楽しい話をしてもらうことにした。

 めぐみさんの思い出話になると、滋さんが身を乗り出して語り始めた。
 めぐみさんは両親からとても大事に育てられ、小さいころの服はほとんど早紀江さんが手作りしていた。めぐみさんの下に双子の男の子が生まれると、早紀江さんの手はいきおいそちらに取られ、めぐみさんと遊ぶのは滋さんの担当になった。
 日銀の社内旅行も二人で行ったし、めぐみさんが映画を見に行くのも滋さんと一緒、中学になるとめぐみさんの服は滋さんが選んで買っていたという。めぐみさんは「お父さん子」だったのだ。

 横田家は、1976年7月に新潟に移って来る前、広島に暮らしていたが、広島に宝塚が来た時、滋さんはベルバラ(ベルサイユのばら)のファンだっためぐみさんを連れて一緒に観に行った。

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めぐみさんが描いた漫画で、親友の眞保恵美子さんに贈った

 その後も滋さんはベルバラに魅せられ、2012年の40周年記念『ベルサイユのばら展』も早紀江さんを伴って観に行っている。
 めぐみさんに影響されたのか、滋さんは意外にも「ぶりっこ」系の歌手に詳しい。とくに松田聖子は、めぐみさんと年齢が近い(めぐみさんが2歳下)こともあったのか、大ファンで、CDを買いコンサートにも行っていた。

 そんな話を滋さんが嬉しそうに語っていた姿が印象に残っている。拉致問題の集会では珍しく、会場からときおり笑い声が起こった。
 横田さん夫妻が話す集会では、いつもは早紀江さんが自然に「主役」になるのだが、この日は、親バカぶりを披露した滋さんが会を盛り上げたのだった。

 滋さんから「めぐみは目のなかに入れても痛くないほど可愛い娘でした」と聞かされたことがある。大げさな表現を好まない滋さんが、「目のなかに入れても痛くない」と言ったことが忘れられない。

 思い出話はこのくらいにして、きのうの続きを。
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 韓国に亡命した元北朝鮮工作員安明進(アンミョンジン)氏に私が横田めぐみさんの情報を尋ねたのが1997年2月4日(火)。
 その時に安氏に見せたのが、前日2月3日(月)に私たちが成田空港で出発前に買った『産経新聞』と『アエラ』(朝日新聞)の記事だった。
 そして2月8日(土)のテレビ朝日ザ・スクープ」での安明進証言を放送。
 今振り返っても驚くような絶妙のタイミングだが、これにはわけがある。

 前年1996年は、私が北朝鮮に関する報道をはじめて手がけた年だった。
 3月、カンボジアベトナム国境で、1970年の日航機「よど号」ハイジャック犯の田中義三が拘束された。東南アジアに広まっていた北朝鮮の偽ドル札「スーパーK」使用の容疑だった。
 私が所属していた日本電波ニュース社は、カンボジア駐在のM特派員を中心に、タイとベトナムの特派員、本社からの応援も投入した取材態勢をとり、他のメディアを圧倒するスクープを連発した。

 カンボジアに滞在していた田中の身辺には、ガードマンのように3人の若い北朝鮮人が付き従っていた。3人の顔写真や動画を入手し取材した結果、カンボジア王室の警護隊にいる武術の達人であることが判明した。(当時は、シハヌーク王を北朝鮮人が警護していた)
 この「スーパーK」事件取材は、テレビ朝日サンデープロジェクト」の特集として3回にわたって放送された。

 5月、北朝鮮のミグ19が韓国に飛来し、パイロットが亡命。

 9月には韓国の海岸に北朝鮮の潜水艦が座礁し、乗組員が上陸して山に逃げ込むという事件が起きた。韓国軍の大規模な掃討作戦の結果は、逮捕1名、射殺13名、集団自決11名、行方不明1名という衝撃的なものだった。
 集団自決という異様な行為で、「工作員」という言葉が日本で広まることになる。

 私は山狩りのヘリが飛び交う現地を取材したほか、「工作員」とは何かをインタビューするために安明進氏に接触した。
 取材が終わって、安氏と雑談になった。私たちが「スーパーK」事件を取材したことを話すと、「それはテレビで見ました。私が知っている人が映っていたのでびっくりしました」と言う。
 テレビ朝日の番組素材を韓国のテレビ局が購入して放送していたのだった。

 その「知っている人」とは、「よど号」犯の田中義三、そして彼と行動をともにしていた「武術の達人」だった。

 安明進氏は朝鮮労働党工作員養成所である「金正日政治軍事大学」出身で、「武術の達人」は安氏の2年先輩だったという。

 田中を見たのは、労働党の記念日など、年に何回か大学で大きな集会が開かれたときで、2、3人の仲間と隅っこの方に座っていた。彼らは日本から来た「革命家の先生」として学生たちにも知られていたという。
 これはおもしろい!

 「よど号」犯と北朝鮮の工作機関との関係については、またあらためて取材しようと思った。

 年が明けて1997年の1月、私は安明進氏への取材を韓国大使館に申請した。北朝鮮からの亡命者、とくに元工作員となると、韓国の情報機関「国家安全企画部」(安企部)(当時)の事前の許可と日程調整が必要になる。
 取材許可が出て、2月4日に安明進氏のインタビューという日程が決まったのが1月下旬だった。私は1月31日に東京の韓国領事館に出向いて、ディレクター、カメラマンを含め取材クルー3人のビザを申請している。

 この経緯から、横田めぐみさんの拉致をめぐる一連の動き(国会質問、「産経新聞」と「アエラ」の記事)が2月3日に起きることを、私たちも、また安企部も予期できなかったことが分かると思う。

 「横田めぐみさんが北朝鮮にいるらしい」という情報のきっかけになったのは、月刊誌『現代コリア』の96年10月号に載った、朝日放送プロデューサーの石高健次氏のリポートだった。
 リポートでは、「94年暮れに韓国に亡命したひとりの北朝鮮工作員」がもたらした情報として以下を挙げている。

 「おそらく76年のこと」

 「13歳の少女が」「日本の海岸から北朝鮮へ拉致された」。

 「少女はバドミントンの練習を終えて、帰宅の途中だった。
 海岸からまさに脱出しようとしていた北朝鮮工作員が、この少女に目撃されたために捕まえて連れて帰ったのだという」。

 「少女は双子の妹だという」

 「18になった頃」「少女は精神に破綻をきたしてしまった」
 病院に収容されていたときに、工作員がその事実を知った。


 石高氏はこれを韓国安企部の幹部から、酒の席で聞かされた。驚いた石高氏はトイレに行って必死にその話をメモしたという。

 『現代コリア』を主宰する現代コリア研究所の所長、佐藤勝巳氏(故人)は新潟の出身で、96年12月14日、地元新潟市で講演する機会があった。

 講演後の懇親会で、石高リポートに触れたところ、参加者に新潟県警の幹部がいて、即座に「それは横田めぐみさんのことだ」と言ったという。

 数日後、新潟在住で佐藤氏の友人の小島晴則氏が、めぐみさん失踪を伝える当時の『新潟日報』の記事を入手して佐藤氏に送ってきた。状況は符合する。
 佐藤氏は1月上旬から、『現代コリア』のホームページに横田めぐみさんの拉致疑惑を掲載した。そこから情報が回りはじめた。

 北朝鮮の拉致疑惑を熱心に調べてきた先駆者に、当時、日本共産党の橋本敦参議員の秘書だった兵本(ひょうもと)達吉氏がいる。

 彼が知り合いから、石高リポートと『新潟日報』の記事のファクスを受けたのは97年1月21日のことだった。
 兵本氏はすぐ横田滋さんの勤務先だった日本銀行のOB会「旧友会」に連絡をとり、その日のうちに滋さんに電話をかけた。
 「実は、おたくのお嬢さんが、北朝鮮にいるという情報が入ったんです」。

 驚いた滋さんは川崎の自宅を出て、電話から1時間もしないうちに永田町の議員会館に飛び込んでいる。
 そこで兵本氏から手渡された石高リポートを滋さんはむさぼるように読んだ。
 兵本氏によれば、読み終わって顔を上げた滋さんの目には、うっすらと涙が浮かんでいたという。
 「これは・・・、めぐみに違いないと思います」
 めぐみさんが北朝鮮工作員に拉致されたとの情報を滋さんがはじめて知ったのは、日本共産党の国会議員の部屋だった。

    ここから「めぐみさん拉致疑惑」が展開しはじめる。
 1月23日、西村慎吾衆院議員(新進党)が政府に「質問主意書」(北朝鮮工作組織による日本人誘拐拉致に関する質問主意書)を提出。

 同日、石高氏が横田家を訪問、詳しく説明。

 25日、『アエラ』(朝日新聞社)の長谷川煕(ひろし)記者が横田夫妻を取材。
 28日、『ニューズウィーク』誌の高山秀子記者と『産経新聞』の阿部雅美記者が取材。
 29日、滋さんが西村代議士に電話。西村氏から主意書への政府の答弁が遅れているとの説明を受ける。(実際に答弁があったのは2月7日で「捜査中」の回答だった)
 30日、横田夫妻が新潟中央署に、それまでの経緯を説明に行く。

 そして1月31日、『アエラ』誌の長谷川記者が2月10日号の見本を持って、再び横田さんの自宅にやってきた。長谷川記者は、めぐみさんや横田さん夫妻を実名で報じること、雑誌は翌々日(2月2日)には出ることを告げた。

 早紀江さんは仰天し「雑誌の発売を待ってください」と叫んでいた。二人の息子に電話をして意見を聞くと二人とも実名公表には反対だった。
 滋さんはただ一人、実名を出すべきだとの考え。早紀江さんは一睡もせずに考えた末、滋さんの判断に従った。

 横田めぐみさんの拉致疑惑は、こうして何人もの人々の縁とめぐりあわせを経て、失踪20年目にしてようやく表に出て来たのである。
(つづく)

横田滋さんの逝去によせて-覚悟の実名公表

 恐れていたことが起きた。
 横田滋さんが亡くなった。

https://www.asahi.com/articles/ASN656DSRN65UTIL03G.html

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  2年前の入院から、だんだん弱っておられると聞いていたので心配していたのだが。

 申し訳ないと思う。
 国民の一人として、また拉致問題の報道に深く関わったものとして。
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 振り返れば、北朝鮮による日本人拉致が国内だけでなく国際的にも周知され、救出への機運が高まり、被害者の5人とその家族を取り戻すことができたのは、滋さんの決断と見識によるところが大きかった。

 拉致問題の転機は、1997年の2月3日の月曜日だった。衆議院予算委員会西村真悟議員が橋本龍太郎首相に質問をし、『産経新聞』と朝日新聞の週刊誌『アエラ』が、横田めぐみさんの写真入りで拉致疑惑を大きく報じたのだった。これが北朝鮮による拉致被害者が、実名で全国に報じられた最初である。

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産経新聞1997年2月3日朝刊1面

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アエラ」1997年2月10日号(2月3日発売、店頭には2日から並んでいた)長谷川煕記者の記事

 この実名公表は、覚悟の決断だったと、滋さんは言う。

 《平成9年(1997年)1月下旬、韓国に亡命した元北朝鮮工作員の証言から、「めぐみは北朝鮮工作員に拉致され、平壌で暮らしている」との情報が入りました。
「生きていたのか」と暗闇の中で明かりを見たような喜びが湧いてきました。しかし、冷静になると「本当に無事に帰って来れるのか」と新しい悩みが出てきました。直ちにマスコミが取材にやってきましたが、家族にとってはめぐみの実名と写真を明らかにするかどうかの問題が浮上してきました。実名を出さなければ事件の信憑性が問われる一方、実名を出すと北朝鮮がそうした事実がなかった事にするため殺してしまう恐れがあります。家族の中でも意見が分かれましたが、「日本はこれだけの情報を持っていると事実を公表する方が被害者の安全がはかられる」と判断し、リスクを覚悟の上、実名の公表に踏み切りました》(拙著『拉致―北朝鮮の国家犯罪』講談社文庫の横田滋さんのまえがき)

 実名を出すことには、早紀江さんも、めぐみさんの双子の弟、拓也さん、哲也さんもみな大反対だった。滋さんは、実名を出さなければ何も動かないとの思いから、家族の反対を押し切って、めぐみさんの実名公表を決断したのだった。

 ここから事態は動き出した。

 新潟に「救出する会」ができ、3月25日には、それまで各地で孤立していた拉致被害者家族たちが「家族連絡会」を結成、「北朝鮮に対し、断固たる態度で、身柄の返還を要求していただきたい」と政府に声を上げた。

 急激な世論の盛り上がりもあって政府は5月、北朝鮮による拉致疑惑事例として「7件10人(および拉致未遂1件)」と正式に認定することになる。

 

 滋さんは「家族連絡会」の代表として適任だったと思う。

 拉致という残酷な犯罪の犠牲者家族としては、感情的になっても不思議ではない。ヘイトに流れてもおかしくない運動に良識の筋を通し、在日朝鮮人への非難をたしなめた。北朝鮮の当局と民衆を区別し、民衆は自分たちと同じ、人権侵害の被害者だとのスタンスを崩さなかった。

 政府要人や政治家、支援者ら被害者救出運動にかかわる個人、団体への批判を公開の場で漏らすことはなかった。

 政府が本気で拉致問題に取り組んでいるとはとても思えないときにも、その不満は胸のうちにしまいこんでいた。メディアからの思慮のない質問にも怒らず丁寧に答えていてよく我慢できるものだと感心させられた。

 「家族連絡会」には次第に大きな金額の寄付も集まるようになったが、滋さんは金銭の管理に手を抜かず、いつも領収書を確認しながらきちんと経理ノートを付けていた。

 横田夫妻とテレビのスタジオに一緒に出演したとき、テレビ局までの交通費を自腹で払っていることを知って驚いた。どうしてですかと尋ねると、「自分の娘のことをお願いする立場だから」と滋さん。

 これは「活動」なのだから、「家族連絡会」の活動費で出すべきですよと、私が強く説得したことがある。それほどお金にはきれいで、活動費の使途不明金騒ぎが起きた「救う会」などの金銭管理のルーズさとは無縁だった。

 救出運動は、誠実そのものの滋さんと早紀江さんが先頭に立ったことで、国民から広く信頼されるようになったと言えるだろう。
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 滋さんとはじめてお会いしたのは、1997年の2月6日。夜8時半に自宅を訪問した。

 そのとき私はお二人に、めぐみさんらしい日本女性を北朝鮮工作員養成所で見たことがあると語る元北朝鮮工作員の取材動画をお見せした。これが初めての「めぐみさん目撃証言」だった。

 この目撃証言は2月8日(土)、テレビ朝日の報道番組『ザ・スクープ』で報じられ、社会に大きな衝撃を与えた。各方面からのリアクションもすさまじく、取材した私たちを、韓国の諜報機関に踊らされたバカどもと罵倒する人々もいた。

 誤解もされているので、この機会に「目撃証言」の顛末について記しておこう。

 私はこれに今でも不思議な運命を感じている。

 当時、「日本電波ニュース社」の報道部長だった私は、2月4日(火)にソウルで安明進(アンミョンジン)という元北朝鮮工作員をインタビューする予定で、3日(月)15時50分成田空港発の便を予約していた。

 インタビューの目的は、もちろん拉致問題ではなく、東南アジアで起きた偽ドル事件の継続取材だった。

 3日昼過ぎ、NディレクターとMカメラマンと3人で成田空港に行った。出発まで時間があったので、新聞を買おうと、空港の売店をのぞいた。すると―

 「サンケイ朝刊一面で、横田めぐみさんの20年前の失踪が、実は北朝鮮への拉致ではないかとの記事が出る。きょう発売のアエラも特集。あす安明進にぶつけようと意気込む」(私の2月3日の日記より)

 何というめぐりあわせだろう。
 空港の待ち時間で、めぐみさんの写真入りの記事が載った「産経」と「アエラ」が目に入り、その二つを購入して私たちはソウルに向かうことになったのである。

 そして翌4日の午後、私たちが待ち受けるホテルの部屋に、安明進氏が入ってきた。
 さっそく前日に成田で買ってきた「産経新聞」と「アエラ」を見せる。

 安氏はしばらく記事に掲載されているめぐみさんの写真を見ていた。

 そして「この女性には見覚えがあります」と言い切ったのだった。

(つづく)

 

天安門事件31周年を獄中で迎えるジャーナリスト

 明け方、地震を体感した。
 このごろ、やけに地震が多い気がする。災害に強い国づくり、レジリエンスを、などと掛け声はいいのだが、ちゃんと手をうっているのか。
 ちょうど1年前、オーストラリアの田舎町に、2011年2月、東日本大震災の1か月前に襲ったサイクロンを機に、立派な「サイクロンシェルター」が造られた話をこのブログに書いた。

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 そのサイクロンの犠牲者は1人だけだったが、オーストラリアではすぐ教訓化して「次」に備えたのである。日本は今も、災害時は学校の体育館に避難させればいいだろうという構えだ。災害対策でも後進国になりかねない。
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 野川は、東京では比較的流域の人との距離が近い川だ。ここは府中市で、川で遊ぶ子どもの姿をよく見かける。草ぼうぼうでちょっとワイルドなところもある。川そばは車が通らないし、空気もいいので自転車で走るには格好だ。 

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 公園で一息入れようと自転車を停めたら、上からポトンと頭に落ちてきたものが。見上げると桑の木で、実がたくさんなっている。

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 枝を引き下げてたくさん食べ、手が真っ赤になってしまった。
 それにしても、公園になぜ桑があるのか。

 後で調べたら、府中市はかつて養蚕が盛んで、味の素スタジアムあたりは一面の桑畑だったという。東京オリンピック開催が決まると甲州街道が建設されることになり、多くの農家が農地を売って廃業した。やはりオリンピックが世の中を変えたのだった。なお、甲州街道はオリンピックのマラソンコースに使われたという。
 桑の実で思わぬ地域史の勉強になった。
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 6月4日は、1989年の「天安門事件」から31年。

 この日は香港にとって大事な日だ。
 天安門事件翌年の90年にビクトリア公園で始まった追悼集会は、97年の中国への返還後も大規模に行われてきた。中国本土では事件を語ることや犠牲者を追悼することは禁止されるなか、香港の集会は、言論や集会の自由を保障した「一国二制度」のシンボル的な行事だった。

 ビクトリア公園での「ろうそく集会」には、事件から30年の節目の昨年は、過去最多の約18万人が参加した。

 今年は、新型コロナウイルス感染防止を理由に、当局は初めて集会を許可しなかったが、それでも市民らは各地で追悼行事を行った。ビクトリア公園には数千人が追悼のロウソクを手に集まったという。

 《「国家安全法」が近く導入される予定で、来年以降の追悼行事の実施が危ぶまれている。ろうそくを手に集まった市民たちは「これが最後になるかもしれない」と事件の真相解明などを求めて声を上げた。》

 実際、国家安全法は中国本土並みの治安法になる可能性が高いから、今年が最後というのは現実的な危惧である。

 中国政府は、事件は解決済みとの立場だ。
 中国外務省の趙立堅副報道局長は4日の記者会見で「中国が選んだ発展の道は完全に正しい。政府による当時の行動は完全に正しく、政治の安定や経済発展を守った」と述べたという。
https://mainichi.jp/articles/20200604/k00/00m/030/326000c
 経済が発展したからいいじゃないか・・・。

 

 興味深いのは、新型コロナの感染が始まった地でも当局が厳戒態勢をとったことだ。
 《武漢市で感染症の遺族を支援する住民は「事件の節目となる4日を前に当局の監視下に置かれ、自由を奪われた」と語った。同市では感染症発生を隠蔽したなどとして、政府に対する不信感が根強く、当局は抗議デモが起きないよう神経をとがらせているとみられる。》〔共同〕

 10日ほど前の「国際報道」で、武漢での報道で行方不明になっているジャーナリストがいることを報じていた。

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1月24日、単身、武漢に乗り込んだ陳さん

 ネットで発信する市民ジャーナリストで弁護士でもある陳秋実さん(34)で、1月24日に湖北省武漢市に入り、「マスクも防護服も物資もない。病床があっても医者がいないから意味がない」などと危機的な状況を実況していたが、2月6日に突如連絡が取れなくなったという。

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患者が廊下まであふれる病院の様子や、検査キットが足りない状況なども報じた

 最後にあげた映像では、陳さんは下着姿で「目の前にはウイルス、背後からは政府の権力に見られている。」「死は怖くない。共産党なんか怖くない」と泣き顔で叫んでいる。当局の追及が迫り、拘束を覚悟したのだろう。

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 仲間の張毅さんは、「誰も声を上げなければ、私たちは社会に希望を見いだせなくなります」と訴える。

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 弾圧のなかくじけずに奮闘する市民ジャーナリストに連帯したい。

(陳さんについては、2月16日のTBS[サンデーモーニング」でも紹介された。
https://note.com/tbsnews_sunday/n/n54f6829e1ed8

「持続化給付金」769億円受注の真相を明らかにせよ

 政府のコロナ不況への緊急経済対策として打ち出した目玉事業「持続化給付金」。昨年より収入が減った中小企業等の法人に200万円、フリーランスを含む個人事業主に100万円を上限に現金を支給する制度だ。申請開始後、さまざまなトラブルが発覚しているが、そもそもそのからくりに疑惑が浮上した。

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 以下、『週刊文春』(6月4日号)記事から。
 《この事業を一般競争入札で受注したのは「一般社団法人サービスデザイン推進協議会」。契約日が4月30日、契約金額は769億円に上る。(略)
 「電通が国の事業を請け負うための隠れ蓑として設立された、実体のない“幽霊会社”だと言われています」(代理店関係者)》

 文春の記者が所在地とされる東京・築地のビルを訪ねると、

 《膨大な業務に追われているはずの協議会のドアは固く閉じられ、人気は全く感じられない。インターホンを何度押しても反応はなかった。》

 この協議会は、経産省肝いりで始まった「おもてなし規格認証」という制度を認定機関として運営しているが、経産省が規格事業の公募を開始した2016年5月16日と同じ日に設立されたという。主導したのは経産省に太いパイプがある当時電通社員だったA氏で、登記簿では理事にA氏のほか電通の関連会社役員二名が載っているという。

 これは電通の利権のためのトンネル法人ではないかとの疑いが出てくる。

 経産省自らが立ち上げを後押ししたもようで、経産省の姿勢も問われる。

 「国が一般社団法人に委託した事業の大部分を電通のような民間企業が請け負っているとすれば、なぜはじめからダイレクトに委託しなかったのか。この点が公明正大に説明できなければ、国民の疑念を招きかねません。営利性のある事業をやらない一般社団法人の場合は非課税ですから、節税の温床になっている可能性もあります」(中央大学法科大学院・酒井克彦教授)

 

 実は、この幽霊法人の問題は、しばらく前からネットでは問題になっており、国会でも立憲の川内博史議員などが追及している。https://twitter.com/cdp_kokkai/status/1265204166986612739

 大問題のはずだが、マスコミの報道が異様に少ない。
 とくにテレビの追及がほとんどない。

 マスコミを牛耳る電通のスキャンダルだからなのか。

 

 東京新聞は6月1日朝刊一面トップで報じた。

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 記事によると、この「協議会」は設立4年でなんと1576億円の事業を経産省から委託されていた。電通は「回答を控える」と取材に応じない。国民のお金である。「回答を控える」はないだろう。

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東京新聞5月28日より

 《国の持続化給付金事業を担う一般社団法人サービスデザイン推進協議会が設立から四年で、同事業を含め十四事業を計千五百七十六億円で経済産業省から委託されていた。うち九件を、広告大手の電通や人材派遣のパソナなどに再委託していたことも判明。残りの五件でも事業の大半を外注していた例があり、法人本体の実体の乏しさがより浮き彫りになった。 (森本智之)
 過去の再委託の事例は経産省が国会議員に示した資料で明らかとなった。法人が再委託をした事業九件のうち、電通グループに七件、パソナには二件と法人の設立に関与した企業を中心に事業を回していた。
 法人の不透明さが発覚する発端となった持続化給付金では、委託費の97%に当たる七百四十九億円が再委託費として電通に流れている。電通が設立に関与した法人から電通に事業が再委託される経緯について、両者はこれまで「回答を控える」としている。経産省は現時点で、持続化給付金以外の事業に関しては再委託費を明らかにしていない。
 ただ、税金の使い道を検証する政府の行政事業レビューによると、電通など五法人が再委託を受けた中小企業などへのIT導入支援事業(二〇一七年度)では、四百九十九億円の予算から、法人にひとまず入った金額の96%に当たる三十七億円が外部に流れていた。過去の再委託でも同様に、法人が事業の大部分を外部に回す手法が目立つ。
 さらに「再委託先はない」と経産省が説明する五件でも、レビューによると法人が事業を外注していた例があった。例えば外注割合はおもてなし規格の事業(一六年度)で68%相当、IT導入補助金(一七年度)では96%に上った。
 再委託と外注は契約形態が違うが、法人が自前で業務の大半を行わず外部に任せるという点では同じ。過去の事業でも法人が税金から得た金額が問題視されそうだ。

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東京新聞6月1日

<持続化給付金事業の再委託> 経済産業省中小企業庁は中小企業などに最大200万円を給付する持続化給付金で、一般社団法人サービスデザイン推進協議会に769億円で事業を委託。この法人はサービス業の生産性向上を図る目的で2016年5月、電通パソナトランスコスモス日本生産性本部などによって設立された。委託費の97%に当たる749億円が、法人からの再委託で電通に流れることが判明。実質的な給付事業は電通が担っているといえ、法人の実体の乏しさが鮮明となった。一方、法人の代表理事は6月8日付で辞職するとしている》(東京新聞

 この問題は見逃せない。他のメディアも報道せよ。

フリーの友人がオランダで支援金を受け取った

 ガードレールの花。

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 このムラサキの花はシラン(紫蘭)。外国から来た植物かと思いきや、もともと日本列島に自生していたランだそうだ。
 これはきっと近所の人が植えたのだろう。 f:id:takase22:20200527155400j:plain

 こちらはセイヨウキンシバイ(西洋金糸梅)。名にはセイヨウとあるが小アジア原産だという。黄色が鮮やかだ。

 数日後、この一帯に通りかかったら、景色が変わってがらんとしていた。

 行政による定期的な路上清掃なのだろう、「雑草」たちが一斉に刈り取られて、ガードレールが裸になっている。きれいになったことに文句をつけてはいけないのだろうが、殺風景でさびしい。
・・・

 「蘇」を作るのが流行っているらしい。

 「蘇」とは乳汁を固形にした古代食だとされるが、ネット検索すると、レシピ(作り方)がたくさん出てくる。要は煮詰めるだけ。

 学校給食がないため牛乳が大量に余り、もっと消費しましょうというトレンドだという。おもしろそうなので試してみた。昔、白土三平の漫画(たぶん『カムイ伝』)で蘇が登場して、実に美味そうに描かれてあったことを思い出した。(盗み舐めするシーンがあったような気がする)

 ことこと弱火で煮詰めて1時間近く。まだクリーム状にならない。ネット検索して電子レンジで時間短縮する方法があることを知り、レンジとコンロを両方使ってようやくねっとりしてきた。あわせて、酢を入れてチーズも作り、冷蔵庫で冷やして食べてみた。

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左のクリーム色が蘇。右の白いのがチーズ。

 できた蘇は、自然な甘みがあって素朴な味わい。チーズは、こちらも「素朴」という表現がぴったりで、思ったよりうまい。
 こういうちょっとした挑戦は楽しい。また作ってみよう。
・・・・・・・・・・
 安倍内閣の支持率が軒並み20%台に転落しているが、原因の一つがコロナ対策のピンぼけ度と超スローさだ。

 わが家の場合、アベノマスクが着いたのが、緊急事態宣言が解除された当日の5月25日。そして肝心の一人10万円の給付金の申請用紙が市役所から届いたのが27日だ。申請書はすぐに翌朝投函したが、さていつ振り込まれるか。

 世間からの不満に押されて、中小企業のほかフリーランスを含む個人事業主へも「持続化給付金」が適用になった。

 1日から申請受け付けを始めると7日時点で約50万件に上り、8日時点で約2万3000件に支給されたというが、先日の報道特集で報じられたようにトラブルがあいつぎ、抗議の声があがっている。

 27日、梶山経産相は、持続化給付金に130万人が申請し、「全体の4割で書類の不備」があると認めた。審査段階でトラブっているのだ。

 対応できていない原状に共産党の笠井議員がドイツの例を出し、事後審査に切り替えてスピードアップするよう要求した。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik20/2020-05-29/2020052905_05_1.html

 首相が2週間で振り込むと約束したのをあてにし、入金されずに5月末に倒産した会社もあるはずだ。

 

 実際、海外ではどうなっているのか。

 オランダに3月に移住し、フリーで仕事をし始めたばかりでコロナ禍に見舞われた友人のHさんから、現地で支援金を受け取ったとのメールが届いた。
 直に知っている人からの情報は、ニュースと違って生々しい。

 《5月19日に申請をして、29日の振込。ちょうど10日間です。
 私は、3月1日付けで、事業登録していますので、オランダで事業を始めて3ヶ月にも満たないのに、支援金が出たということです。》

 さすが欧州は、来たばかりの外国人にも分け隔てなく支援している。
 英語のアムステルダム市のサイトからオンライン申請したとのこと。
 市のサイトは

www.amsterdam.nl


 左上のCoronavirus (COVID-19)をクリックして、次にHelp for businesses and freelancers、さらにIncome supportへと進んでいく。
 とても分かりやすい。日本の役所のサイトは見づらく外国人には不親切だ。この辺は学ばないと。

《申込みで、自由記述の欄があるのですが、そこには、
私たちの仕事は、報酬は翌月か翌々月に入る。3月に働いた分が4月に入ったが、4月も5月も仕事がなくて、5月と6月は確実に収入はない。6月のことはわからないが。。。。というようなことを書きました。
 そして、4月8日に作った事業用口座の取引記録と、家を借りているという「貸借契約書」のpdfを送りました。
あとは、webサイトの必要事項欄に、淡々と記述してゆくだけです。》

 支援金の最高額が1500ユーロ(約18万円)だそうだが、
 《振り込まれた額は1052.32ユーロ(約12万6千円)です。端数の意味はよくわかりません。
 この支援金の収入は、年間の所得としてカウントされます。
 つまりは所得税の課税対象になる、ということです。》

 支援金は3ヵ月まで申請できる。

 欧州の感染は東アジアとはけた違いのひどさだが、早くおさまってHさんの仕事が再開できるよう祈っている。

危険な中国の「攻撃的愛国主義」

 ガードレールの花。

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 きょうはハルシャギク。別名はジャノメソウ(蛇目草)。「ハルシャ(波斯)」はペルシャのことだが、実は北アメリカ原産。日本では、明治時代初頭に来たとされる帰化植物だそうだ。これも園芸用から野生化した植物だ。

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 こちらはマツバギク南アフリカ原産だそうだ。
 たぶん近所の人が植えたのだろう。

 ガードレールのそばにたくさんの種類の植物が生えているのは、こうして人が植えたのもあるからだろう。道行く人に花を楽しんでもらおうという心遣い。ありがたい。
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 先日公開したコラム【高世仁のニュース・パンフォーカス】の「コロナ禍があぶりだす日本のガラパゴス化」で、給付金をマイナンバーを使ってオンライン申請すると行政の事務が大変な手間になって郵送の方が早いという実態を批判した。膨大な公務労働の浪費になっていることに情けなさだけでなく、怒りさえ感じたのだった。

 というのは、ドイツでは4月のあたまに「助成金」を申請して2日で振り込まれたと聞いていたからだ。

 ところが、もっと早いところがあるらしい。
 28日の朝日新聞「特派員メモ」(ソウル)から。
《韓国の人たちの間で最近、あいさつ代わりに交わされる話題がある。「もう緊急災害支援金を申請しましたか?」だ。新型コロナウイルスの流行を受けた政府の経済対策で、1世帯あたり、最大100万ウォン(約8万6千円)が支給される。
 私も知人に申請したか聞いてみた。「オンラインで1分もかからなかったよ」。ITが発達し、何でも「早さ」を好むお国柄。申請もスムーズなのだな、と思いつつ、いつ入金なのかも尋ねた。
 「入金?もう受け取ったよ。ああ、さっき1分もかからないと言ったのは、申請から入金までのこと」
 多くの人が支援金をクレジットカードなどの「ポイント」で受け取る。クレジット会社もホームページや携帯電話のアプリで簡単に手続きできるらしい。(略)》

 日経新聞でも「コロナ給付金2週間で97%完了 韓国、スピードの秘訣」の記事。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59677240Y0A520C2000000/

 日本もはやく、マイナンバーを「使える」システムにしなければ。
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 28日、中国の全人代は国家安全法制を採択した。
 立法権を持つ全人代常務委員会が関連法案の制定作業に着手し、早ければ8月にも法律が可決、施行されるという。


 米国は反発を強めており、27日には下院がウイグル族らの人権弾圧に関わった中国政府高官らへの制裁を政府に求める法案を可決した。
 トランプ大統領は人権などに関心をもつ人物ではないが、大統領選挙をにらんで中国への強い態度で臨む形を見せたいところで、このところ強硬姿勢で突っ張っている。

 中国をめぐる国際関係がちょっと心配になるくらい「熱く」なっており、「米中冷戦か?」などという段階ではなく、本格的な敵対関係の時代に入った感がある。

 中国の方もますます反米姿勢を強めている。
 政府だけでなく、一般の人々の間で「攻撃的愛国主義」が急激に強まっている。政府を称賛することが「愛国」であり、政府を批判する人は攻撃されるべきという風潮で、ネットでの政府批判はとてもできないムードになっているという

 『ニューズウィーク』が武漢在住の作家方方(ファンファン)さん(65)のケースを取り上げている。

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方方さん

《1月23日にウイルス発生地の武漢が都市封鎖された時、中国のSNS上に珍しく政府に対する非難や責任追及の声が現れた。武漢在住の女性作家・方方(ファンファン)が毎日ネットに投稿した「武漢日記」は作家の良心として注目を集め、大量にシェアされた。政府への謝罪要求や批判は高まる一方だった。
 ただし3月以降、欧米の感染者が増え続けるなか、中国のネット世論も逆転した。政府批判が突然消え、代わりに欧米諸国に対する嘲笑と中国政府への賛美が始まった。感染拡大を抑止した中国の強さは共産党一党支配の制度的優位性を示し、欧米諸国の感染拡大は民主と自由の制度的な失敗だという。こういった政府賛美は、政府のネット工作員以外はほとんど「小粉紅」といわれる若い愛国者からの自発的な投稿だった。
 つい先日まで人気だった「武漢日記」も英語版の出版によって批判の的となり、方方は「良心的作家」の座から引きずり降ろされ、売国奴として罵倒されている。日記の中に、感染情報を隠蔽したと中国政府を批判する記述があるためだ。今はアメリカが中国政府の責任を追及している最中。「武漢日記」の英語版出版は「給美国逓刀子(アメリカへ刀を渡す、アメリカに中国の罪状を示すという意味)」ではないか、裏切り者だ、決して許せない──というわけだ。
 わずか2カ月前、政府の不作為と情報隠蔽は中国全土をパニックに陥れたが、今は何事もなかったかのように自国の政府を賛美し、他国の政府を嘲笑している。
https://www.newsweekjapan.jp/satire_china/2020/05/7.php

 

 NHKBS1『国際報道』(28日)も方方さんについて詳しく伝えた。
 方方さんの日記はコロナ禍の日常を綴ったもので、例えば、2月4日(封鎖13日目)には
「スーパーが閉鎖され食料がなくなるのを恐れて買い占めがおきているという」。

 12月に新型ウイルスに警鐘を鳴らして当局から訓戒された李文亮(Li Wenliang)医師が亡くなった直後の2月7日(封鎖16日目)には
「情報が封じ込められていた間に、多くの医療従事者が感染し、その家族も悲しんでいる」。

 感染対策が効果を示し始め、党、国家への感謝が求められたことについて、3月7日(封鎖45日目)には
武漢のリーダーたちは市民に党や国家に感謝するよう求めるが、実に奇妙な考え方だ。政府は人民の政府であって、人民のために奉仕する存在だ」と書いた。

 方方さんの日記には当初、大きな共感が寄せられた。

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はじめは多くの人が方方さんの日記を称えた

 ところが4月8日に武官の封鎖が2ヵ月半ぶりに解除され、北京や上海でも経済活動が再開、一方で欧米各国で感染が深刻になってくると、世界の他の国々に対する優越感も煽られて政府への支持が圧倒的になり、政府に批判的な言動はSNSなどで誹謗・中傷されるようになった。

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「中国はすごい」と党・政府への賛辞が一気に増えたという

 方方さんには、日記が海外で出版されるとの情報が流れると、中国の悪い印象を世界に与えるとの非難が寄せられて炎上、殺人をにおわせる脅迫もあったという。
 方方さんは書き込み機能を停止し、海外メディアからの取材も控えている。

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政府レベルでも米国に対する強い表現の非難を意識的に公開しているふしがある

 習近平体制のもと、言論統制と世論工作が徹底され、感染の不安な心情からコロナとの闘いでの一体感や反米による団結意識へと煽られ、「攻撃的愛国主義」の蔓延になっているようだ。

 「政府支持=愛国」の常套手段で国民を煽る指導者は、国家を危機に陥らせ国民を不幸にする。トランプはその典型だし、わが国の指導者もその傾きが強い。ただ、トランプは対北挑戦制作を見ても、「口だけ」の強がりにすぎない。一方、今の習近平指導部は、尋常ならざることをやる実力も意思もあるのが怖い。
 政府には言葉通りに「毅然とした」対中外交を求めたい。習近平国賓来日などは問題外だ。