中村哲医師とティリチ・ミール登山

 最近よく、新聞の一面に驚かされる。

朝日新聞』19日朝刊一面

 今朝の『朝日新聞』はトップが「核搭載艦 日本寄港容認の文書 60年安保改定/米『事前協議なしに』/米公文書 専門家が精査」。これは後の沖縄密約事件につながる日米の密約体質を報じるスクープだ。 

 2年前の3月参院でこんなやりとりがあった。

 《岸田文雄首相は7日の参院予算委員会で、非核三原則の「持ち込ませず」を巡り、有事に際して例外的な対応を取る可能性があるという認識を示した核兵器を搭載した米艦の一時寄港を認めなければ日本の安全が守れない場合、「その時の政権が命運をかけて決断し、国民に説明する」とした2010年の民主党政権時代の政府見解を「岸田内閣も引き継いでいる」と述べた。立憲民主党小西洋之氏の質問に答えた。

 一方で、首相は、米軍の核兵器の共同使用を前提に平時から日本国内に配備する「核共有」について「『持ち込ませず』とは相いれない」と指摘。「持たず」「つくらず」を含めた非核三原則を「国是として堅持している」と語った。》(東京新聞https://www.tokyo-np.co.jp/article/164239

 「事前協議なしに」寄港できる密約があったなら、民主党政権時代をふくめ前提がひっくり返る。日本政府はこの資料を突きつけられても資料がないとして認めない。真相を明らかにすべし。

 一面の隣には日本人が「難民」に認定されたという記事。

 「日本人カップル、カナダで難民認定/『日本で差別逃れられない』指摘」。日本では、同性愛者や女性であることで受ける差別から逃れられないとして難民申請をした女性同士のカップルを、カナダ政府の移民難民委員会が「日本での迫害に対して(当事者が)十分根拠がある恐怖を抱いている」と認めたのだ。

 国連難民高等弁務官事務所によると、他国で難民認定される日本人は毎年数十人いるそうだ。

 日本から海外に売春出稼ぎに行くニュースを見たが、いよいよ日本は「遅れた国」に沈下していく。

 

 きょうの朝日歌壇に上田結香さんの歌が出ていた。私はこの人のファンで、いつも楽しみにしている。

夜はとても絶望的に長かった勤務後の酒席が義務だったころ 

 昔話にしているが、今はどうなんだろう。上田さん、1月21日の歌壇に以下の歌を詠んでいる。

理由なく辞めたわけじゃないあの時代パワハラという語がなかっただけだ 

 いいですね、上田結香ワールド。

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 中村哲医師が、パキスタンアフガニスタンの奥地で医療支援をすることになったのは、登山隊のお付きの医師としてティリチ・ミールへの遠征隊に加わったことがきっかけだ。山が好きで珍しい蝶が見たいためだったが、遠征隊が登っていく道すがら、医者がいると分かった村人たちが押し寄せてきた。

 「我々が進むほど患者の群れは増え、とてもまともな診療ができるものではなかった。有効は薬品は隊員達のためにとっておかねばならぬ。処方箋をわたしたとてそれがバザールでまともに手に入るとは思われない。結局、子供だましのような仁丹やビタミン剤を与えて住民の協力を得る他はなかった。」

 「みちすがら、失明しかけたトラコーマの老婆や一目でらいと分かる村人に、『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。」

takase.hatenablog.jp


  中村さんは、ペシャワールに赴任を決めたことを不条理への復讐だったという

 「当地への赴任は最初にヒンドゥクッシュ山脈を訪れたときの一つの衝撃の帰結であった。同時に、余りの不平等という不条理に対する復讐であった」(『ペシャワールにて』P10-11)

 この一連のエピソードは中村さんの生き方を知るうえで大事だと思い、私と佐高さんの共著『中村哲という希望』の冒頭に書いた。これに関して、最後の「怪物登山家」と称される和田城志さんが『地平線通信』に興味深い一文を寄せている。この78年のティリチ・ミール登山の前後に中村さんと会っていたというのだ。

 和田さんは、「グレートジャーニー」の関野吉晴、『コンティキ号探検記』のヘイエルダールを「越境者」として讃えた後、こう綴る。

もう一人、とてつもない越境者がいる。中村哲である。1978年、パキスタン、ラワルピンディのミセス・デイヴィス・プライベートホテルで出会った。彼は、福岡登高会のティリチ・ミール(7708m)登山隊に医師として参加していた。私は、東部カラコルムのゲントII(7343m)初登頂をねらっていた。

登山を終えて、また同じホテルで再会した。意気投合した。彼は、登山より現地住民の医療環境の劣悪さに心を痛めた。私は初登頂の自慢話を喋り、彼は世の中の理不尽を語った。年齢は3つしか違わないのに、ガキと大人の会話だった。高校時代は学生運動に励んだらしい。医療支援のために、またパキスタンに戻ると言った。生涯の目標を見つけたような口ぶりだった。隊で余った医薬品を寄付してほしいと言われた。その数年後に、国境の町ペシャワールに拠点を築き、アフガニスタンでの活動を始めた。それからの活躍は周知のとおりだ。

彼は、あらゆる境界に対して異議申し立てをしつづけた。国家間の経済格差と侵略、宗教の壁(カトリックの彼がイスラム教のモスクを建設した)、政府と反政府の権力闘争、医療教育と灌漑土木の重要性、常に境界の最前線に身をおいて活動した。思想に普遍性があり明瞭だ。眼光鋭い面立ちには、怒りと慈愛が混在していた。

戦争と飢餓の克服、和平への道筋を世界に示した。あらゆる戦争の当事者たちは中村に学ぶべきだ。自己主張と破壊だけでは何も解決しない。混迷を深くするだけだ。中村哲は、弱きを助け強きをくじく、義理と人情の任侠渡世の人だ。ノーベル平和賞の没後受賞のさきがけになればと願う。

境界を越える人にあこがれる。肉体で語る人にあこがれる。そのようにして磨かれた知性にあこがれる。優勝劣敗弱肉強食だけが、自然淘汰の駆動力ではない。分け隔てなく降り注ぐ宇宙線の御業、繰り返す生と死の突然変異、境界を越えてめぐる輪廻転生、あえぐ宇宙船地球号を導く越境者たちにあこがれる。(和田城志「波間から」その8)
https://www.chiheisen.net/_tsushin/_tsus2024/tsus2405.html

 中村哲さんは登山の直後すでに「医療支援のために、またパキスタンに戻る」と決意していたというのだ。中村さんのすごさにうなった。

 同時に、これを克明に覚えていて中村さんが只者でないことを見抜いた和田さんの眼力にも感嘆する。

 貴重な証言なので、ここに紹介した。なお、補足すると、中村さんはカトリックではなくバプテスト。また、学生運動をやっていたのは大学時代で、警官隊に逮捕された中村さんは最後までカンモク(完全黙秘)を貫き、仲間でもっとも長く留置場に入っていたという。

 ドクダミが白い花を可憐に咲かせている。