中村哲医師とフランクル6

 トルコ南部の大地震は、時間とともに被害の大きさが分かってきて、12日夜の段階で、隣国シリアもふくめて死者が3万人に近づいているという。

シリアの反政府勢力が治める北西部では、アサド政権軍が被災地を攻撃したという。ロシア軍と同じ非人道的な行為。(TBSニュースより)

シリア北西部では重機などが不足し、がれきの下にいる人も救えないという(TBSニュースより)

 この国境地帯は、ながい戦乱がまだ収まらないところだ。厳しい寒さのなか、焚火を囲んで涙を流すシリア難民の姿には言葉を失う。

 「戦争をしている場合ではない。まずは天災に被災した人々を助けよ。」

 これはアフガニスタンの大干ばつを前にした中村哲医師が叫び続けたことでもある。

トルコ南部の町、ガジアンテープの被災状況も激しいものだったようだ。これは2019年に安田純平さんのドキュメンタリーを撮影に行ったさいのスナップ。いい街だった。

通りを歩いていると「お茶飲んでいきな」と声を掛けてくるフレンドリーな人びと。日本人にはとくにやさしい。(筆者撮影)

色鮮やかな果物屋の店先。(筆者撮影)

私が歩いた通りや会った人も被害にあっているのかもしれない。(筆者撮影)

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 前回、中村哲医師は、フランクルのいう「人生からの問いかけ」、中村さんの表現では「天から人への問いかけ」への「応答の連続」こそが人生だとみていることを指摘した。

 フランクルによれば、その人の職業や立場はどうでもよく、「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだ」という。これは中村さんの座右の銘といってもいい「一隅を照らす」にも通じる。

 ユダヤ人であるフランクルたちは、強制収容所という思いもよらない場所で、その「問いかけ」に答えなければならなかったが、私たちも、状況を自分で選んで生きているわけではない。ささいなきっかけや意外な出会いのなかで自分の活動範囲が与えられることも多い。

 中村さんは人生をこう述懐している。

「なにものかに引きずられるながら、自分でも予想だにしなかった遠くまで、旅してきたような気がした。さながら曼荼羅のように、次々と新たな問いと困難に遭遇し、振り返れば日本から遠い地点に立っていた。(略)全ては縁(えにし)の縒り合わさる摂理である。人が逆らうことができぬものなのだ。」(『ダラエ・ヌールへの道』P10-11)

「もともとペシャワールに行くハメになったのが蝶や山で、遊びで行ってのっぴきならぬ事態に次々と遭遇し、足が抜けなくなったまでのことである。『エーイ、こうなったら行けるところまで行け。対峙する問題から目を背けて今更現地を見捨てて逃げれるものか』と述べた方が事実に近い。会いにきた人々をがっかりさせることもあり、逆に安心させることもある。

『先生をそこまで駆り立てるものは何ですか。』

『やむにやまれぬ大和魂ですたい。』

『古くさいことを言って、はぐらかさないでくださいよ。』

『それで納得されなければ、縁とでも申しましょうか。』

『またまた、そんな。奥ゆかしい。』

 こんな問答を数えきれないくらいしたが、実は半分「はぐらかし」ではなく、本当なのである。強いて言えば、現地に対する愛着と興味、そして多くの出会いが我々を動かすものなのかも知れない。ご縁だと言えば皆笑うが、軽く思ってもらうと困る。日本人は良い関わりを望むときに五円玉をのし袋に入れて渡す風習がある。『ご縁を』と、『ご』を付けて縁そのものを崇拝する。『縁がありましたら』を現地風に訳せば『インシャ・アッラー(神の御意志ならば)』に近い。天の摂理の赴くところ我ここにあり、である。我々が意図して何か成ることは案外少ない。昔の日本人はそれを知って大切にしていた筈だ。それを、味気ない因果関係に過度にこだわり、『偶然』だの、『いきあたりばったり』だのと言い換え、逆に『人の意志』とか『やる気』だとかを無闇やたらに強調するのは、日本人本来の美点と洞察力が薄れてきた証拠である。」(P205-206)

 中村さんは1978年6月、福岡の山岳会(福岡登高会)が、パキスタンアフガニスタンの国境にあるヒンドゥクッシュ山脈の最高峰、ティリチ・ミール峰に遠征隊を出した。中村さんは、31歳のこのときまで国外はおろか、九州の外にもでたことがない「田舎者」だったが、蝶と山が好きなことから登山隊付き医師として参加した。生まれて初めて飛行機に乗ったのもこのときだったという。

 遠征隊が登っていく道すがら、医者がいると知った村人たちが押し寄せてきた。

「我々が進むほど患者の群れは増え、とてもまともな診療ができるものではなかった。有効な薬品は隊員達のためにとっておかねばならぬ。処方箋をわたしたとてそれがバザールでまともに手に入るとは思われない。結局、子供だましのような仁丹やビタミン剤を与えて住民の協力を得る他はなかった。

 ある時、咳と喀血で連れてこられた青年がいた。父親が治療を懇願した。診ると明らかに進行した結核だったので、直ちに町へ下りて病院でちゃんとした治療を受けるように申し渡した。ところが、父親が答えていわく、

「町でちゃんとした治療が受けられるなら、わざわざ二日もかけて先生のところまでこない。第一チトラールやペシャワールに下るバス代がやっとで、病院についても処方箋だけ貰ってどうせよというのか。」

 これには返す言葉がなかった。(略)

 こんなところに生まれなくてよかったと割り切ればそれまでだが、私はどうしてもそれができなかった。しかも病人は彼だけでなない。みちすがら、失明しかけたトラコーマの老婆や一目でらいと分かる村人に、『待ってください』と追いすがられながらも見捨てざるを得なかった。」(『ペシャワールにて』P10-11)

 この体験がのちに中村さんをこの地に連れ戻すことになる。

 これは一つの「ご縁」である。だが、このご縁をきっかけに、パキスタン奥地での診療活動を決意したのはただ一人、中村さんだけが出した「問いかけ」への答えである。

 こうした答えの連続が、唯一無二の「私」の個性をつくっていくのだろう。

「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」(フランクル

 中村さんを待っていたのは、日々、過酷な判断を迫られる現場だった。
(つづく)