蓮池薫さんが語る北朝鮮の嘘①

 節季は大寒。一番寒い季節だが、三寒四温で少しづつ春に向かっていく。

 初候は1月20日から「款冬華(ふきのはな、さく)」。次候「水沢腹堅(さわみず、こおりつめる)」が25日から。30日からが末候「鶏始乳(にわとり、はじめてとやにつく)」。フキノトウが顔を出し、流水が凍るほど寒くはあるが、ニワトリは春の気配に卵を産み始める。

 大寒の次は立春だ。
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 1月12日は、拉致被害者有本恵子さんの誕生日だった。健在なら64歳になったはずだ。英国に留学した恵子さんは、23歳だった1983年、欧州から北朝鮮へと拉致された。

 もう事件から40年がたったという事実に、言いようのない無念さを感じる。

 神戸市長田区の実家で毎年やっていた誕生日会は、4年前に母親の嘉代子さんが94歳で亡くなってからは開いていない。ただ、バースデーケーキと赤飯が食卓に並び、父の明弘さん(95)は「(誕生日だが)おめでとうとは言えない。もうちょっと待っていろと声をかけたい」と心境を述べた。

有本明弘さんはケーキと赤飯をテーブルに並べた(サンテレビジョンより)

 明弘さんは記者らに、昨年の恵子さんの誕生日からの1年が「早かった」と振り返り、「(この間に)国はこの問題について的確な対応など何もしていない」と政府の姿勢を批判した。

 去年、お会いしたときも、小泉訪朝から20年以上経つのに政府はいったい何をしているのかと怒っていた。

takase.hatenablog.jp


 政府が今のオールオアナッシング路線からまともな外交政策にすみやかに転換することを望む。
 
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 1月7日、テレ朝の「サンデーステーション蓮池薫さんのインタビューを放送した。ここで蓮池さんは拉致問題についてテレビでは初めて詳細に語った。未放送部分も含めて以下に公開されている。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/900001204.html

 蓮池薫さんはながく北朝鮮との交渉に差しさわりがあるとして自分たちのケース以外の拉致問題のディテールについては語って来なかったが、最近は雑誌『世界』で連載を始め、講演で回るなど主体的に動き出している。

インタビューに応じたのは「なかなか事態が動かないというのもありますけども、北朝鮮が依然として拉致問題は解決済みだと、そういうふうに言っているわけですね。この辺でしっかりと国民に知っていただくと同時に、北朝鮮にとってもですね、こういうごまかしきれないというところを知らせたい。そういう思いで、もう明らかにすべきだなと」

 証言で注目されるのは二つあって、一つは横田めぐみさんとの関係とめぐみさんの消息に関する情報、もう一つは北朝鮮の死亡報告が虚偽であることの指摘だ。以前から分かっていたこともあるが、蓮池さん自身の肉声で証言しているのは貴重だ。

 まず、横田めぐみさんについて。

 蓮池さんたちは、1980年から平壌郊外の山間にある忠龍里(チュンリョンリ)招待所に暮らした。当局の厳重な管理の下、拉致被害者はここで北朝鮮工作員日本語教育を行っていた。個別の接触が禁じられていたため3号棟のめぐみさんと直接会ったことはなかったという。

 忠龍里については私たちがかつて報じたことがある。

takase.hatenablog.jp

忠龍里。金スッキは金賢姫のライバルだったエリート工作員

忠龍招待所。互いに隔離された暮らしだった。


 その後1987年に引っ越した太陽里(テヤンリ)招待では、待遇が変って、互いに行き来が自由な近所づきあいになったという。

 めぐみさんはこの頃、韓国人拉致被害者金英男(キムヨンナム)氏と結婚し娘のウンギョンさんを産んだ。ここで、翻訳などの仕事をしながら、蓮池さんや地村さんはめぐみさんと家族ぐるみの交流をしていたという。

蓮池:「誕生日に一緒に遊んだり、一緒に祝日の時は幹部が来てショーパーティーみたいなのをやるんですよ。その時は1軒1軒じゃなくてみんな集まって、今日は私の家でやります。今度は地村さんの家でやります、というような感じでやっていたし、その頃はもう会っても良いっていう話、自由に行ったり来たりして。ヘギョン(ウンギョン)ちゃんも家に来て泊まったり。日本の普通の隣近所の付き合いのような感じで、味噌がなきゃ『味噌貸してよ』みたいな感じの生活をしていたと」

 「めぐみさんはとても頭は良い方で、韓国語も我々なんかよりかなりうまい。ネイティブのように話されていたし、完璧なバイリンガル。うちらはクセが分かるという、聡明な方でしたね。それと私は、麻雀(牌)を木で作って遊んだんですけど、(めぐみさんは)大変喜んで一緒にやってましたよ。電気消えてもろうそくの火をつけてやるんですけどね」

 めぐみさんが麻雀が好きだったとは意外だ。こうした暮らしのディテールは、拉致被害者北朝鮮当局にとってどういう存在だったかを知るうえで興味深い。

太陽里。「あっこれだ!ここです。私の家ですこれ。地村さんのこれが家だったんです。元々ここにめぐみさんたちが住んでたんですが、ちょっと火事起きちゃって、引っ越して、こっちの家に行ったのかな。移ったんです」

太陽里

太陽里。

 太陽里を衛星写真で上から見たのは初めてだ。

 北朝鮮がめぐみさん「死亡」の根拠として日本側に提出した「死亡確認書」の死亡日は1993年3月となっていた。しかし、蓮池さんは—

いつまで一緒に暮らしたかというと94年の3月なんですね。見送りまでしたんですよ、うちの家内。病院に行くよという時に。だからこれ93年は嘘だと。これがいかにいい加減なものか、 後で作られたものかを証明しているんだと」

 この蓮池さんの情報は、日本側が北朝鮮にぶつけて誤りを認めさせたという、実際に重要な役割を果たした。

 実は、94年にめぐみさんを病院に連れて行ったのは、蓮池さんたちを拉致した工作員チェ・スンチョル容疑者だった北朝鮮は、めぐみさんが入院したのは死亡確認書を作成した「平壌の病院」だと主張しているが、蓮池さんは、チェ容疑者本人から中国との国境に近い「義州(ウィジュ)の病院」に入院したと聞いていた。

チェスンチョル容疑者。

北朝鮮がめぐみさんの死亡場所だとした平壌49号予防院

チェ・スンチョルが車にめぐみさんを乗っけて『じゃあ行ってくるよ』と言って行ったんですよ。うちの家内が寒いから毛布を持っていってあげて、めぐみさんはそのまま行かれたんですよ。平壌から義州行ってくるとなると、少なくとも3日4日かかる、1日じゃ無理ですね。で、3日か4日後に帰ってきたんですよ、チェ・スンチョルが。で、行ったら『病院は思ったより良かった』と。『看護婦さんも優しそうだし、テレビもあったし部屋に。良かったんじゃないか』みたいな話で ちょっと我々のホッとした部分もあったんですよね」

 このへんのやりとりも興味深い。

 さらに、めぐみさんのものとして提出した遺骨について北朝鮮「夫の金英男氏が97年から保管していた」と説明しているが、蓮池薫さんは真っ向から否定する。

夫だった金英男氏

「97年というと、少なくても97、98、99年くらいまでは、我々はその部屋にしょっちゅう行っているのに遺骨がなんでないのって話ですよ、見たこともないし。めぐみさんがもし亡くなったということを知ったら我々に言うわけじゃないですか。それから遺骨の相談もするでしょうし、一切ない。あり得ないんですよ。だから彼の言っていることは、作られた話を言わされている。私はこれは間違いないと思います」

 私も以前から金英男氏の話は事実でないと判断していたが、蓮池さんが確認してくれた。

 めぐみさんの「遺骨」なるものについては、北朝鮮は、日本側に渡す前に「遺骨」を高温で二度焼きしていたが、これはDNA鑑定ができないようにするためで、状況的には、それがめぐみさんのものでない可能性がきわめて高い、と私は見ている。

(つづく)