ウクライナ取材の現場から1

 だいぶご無沙汰しました。実はウクライナを取材していました。去年アフガニスタンを取材したときと同じく、ジャーナリストの遠藤正雄さんと一緒です。遠藤さんはベトナム戦争をはじめ世界中の戦争、紛争を取材してきたベテランで、今回もたくさんのことを教わりました。

 私は10月12日、ポーランドワルシャワへ飛び、遠藤さんと空港で待ちあわせ、そこからバスでキーウに入りました。戦時中のウクライナには民間機が飛んでいないので、陸路で入るしかないのです。

ワルシャワショパン空港出発ロビーにある白いピアノは、待ち合わせ場所に使われる。ここで先にワルシャワ入りしていた遠藤さんと落ち合う。

 キーウにはバスで13時間かかり14日朝に到着しました。飛行機の中とバスの中で2泊したので、さすがにキーウのホテルで1泊。マイダン広場を見に行きました。私はチェルノブイリ原発を2回取材していて、キーウは12年ぶり(2011年福島原発事故の直後の取材から)でした。

親ロ政権を倒したマイダン革命の現場。ロシアとの戦闘に斃れた人々を国旗で悼んでいる。

 翌15日に小型バスでキーウから9時間、南部のザポリージャに入りました。ロシアが今も占拠するザポリージャ原発のある州で、いまウクライナが反転攻勢をかけています。

ザポリージャ州の南の部分はロシア占領地で激しい戦いが進行中だ。(wikipediaより)

 今回訪れたのは、ウクライナ軍の反転攻勢の焦点、南部戦線と東部戦線。冬には雨季が来てまず地面がぬかるみ、次には凍ってしまい、戦線が膠着します。だから今の時期が注目されています。

 以下、フェイスブックに投稿してきた取材リポートを補足して連載します。

・・・・・

 10月16日。きょうからカメラが回り始めた。あいにくの雨。

 前線から6~7キロの町、ザポリージャ州のフリアポレで取材。

 13500人いた町が砲爆撃で破壊され、8割の住民がザポリージャ市などに避難した。避難生活への政府からの支援はわずかで、生活費をまかなえない人は避難できない。戦時にも経済的格差が現れる。

 取材中、頻繁に砲撃・着弾音がしたが幸い近くには落ちなかった。私たちが滞在していた時間帯では、ウクライナ側から撃つ砲撃音がロシア軍の砲弾の着弾音よりはるかに多く、ウクライナ側が攻勢をとっている印象だった。

 それより心配だったのが、雨の中を通訳がすごいスピードで車を運転すること。砲弾の着弾より交通事故が怖い。

真っ平らな耕地が続く。身を隠す山や谷などがない平原で両軍は戦っているのだ。雨なのに通訳は時速100キロで車をふっ飛ばす。

完全にガレキになったフリアポレの文化センター。ロシア軍は劇場や美術館のような文化施設、歴史遺産なども破壊している。

Deep State Mapには両軍の位置情報が更新される。ピンクがロシア軍、緑が反転攻勢でウクライナ軍が奪い返したところ。フリアポレから前線までの距離6.27km。正面のロシア軍は「第177海兵隊独立連隊」とある。戦争がこんなふうに可視化されている。

リポートする遠藤正雄さん。私が撮影を担当。地下室やシェルターは内部だけ撮影してもよいが、入り口周辺の外の景色は撮らないように、と強く注意された。位置情報が「敵」に漏れるのを防ぐためだ。

町の中央には、無傷の集合住宅はほとんどない。また、いつなんどき砲撃でやられるかもしれないので、地下に住む人たちがいる。

この集合住宅の地下には8人が住む。子どもは避難が義務付けられていて、残っているのは年金生活者など経済力のない高齢者が多い。この女性は夫に先立たれ、地下生活は1年になるという。大変ですねと言うと、「勝利の日まで」と笑って答えた。

広いスペースの地下シェルター。町には電気も水もガスも通っていない。ここでは食料品を無料で提供し、スマホの充電設備、温水シャワーや理容室のサービスもある。ソビエト時代、どの町にもこうした地下空間が防衛上作られていた。いまその施設が対ロシア戦で利用されている。

ヘルメットと防弾チョッキを着用しないと前線近くの取材が許可されない。計6~7kgの重さがあり、つけているだけで疲れる。

つづく