「環境問題」ではなく「自然との和解」

 7月のペシャワール会カレンダー。

 皆が夢見るのは、水の流れる故郷で 耕して食を満たし、家族と一緒に 平和に暮らすことです。

 それ以上の望みを 抱く人は少ないでしょう。

 そして、その最低限の望みは、人間ならば誰でも共有できる世界中の願いでもあります。中村哲

 

 今週、来週の土曜は、私が中村哲医師についての市民講座「中村哲医師が命がけで私たちに教えてくれたこと」(東京・小金井市)を担当するので、その講義の準備でふたたび中村さんの本を読んでいる。

 先月、中村哲 思索と行動』(上)(2700円+税)という本が出て、ペシャワール会の会報などに中村さんが寄稿した文章がまとめられた。

中村哲 思索と行動(上)

 私は以前、国会図書館に通って、1984年からの『ペシャワール会報』をせっせとコピーしてきた。国会図書館のコピー代は白黒で1枚25円。膨大な量のコピーで、万単位のお金がかかったのだが、今は2001年までのものはこの本で読める。とても便利でありがたいのだが、一方で、あのコピーの苦労は何だったんだろう・・とちょっと恨めしい。

 中村さんの文章を順に読み進めると、次第に自然と人間の関係の重要性をより強調するようになる。気候変動が人類の最大の課題だという考え方を2000年ごろからはっきり打ち出すようになった。

 アフガニスタンでは、2000年ごろから断続的に大旱魃が起きていて、今も旱魃の被害は深刻なのだが、同時に大洪水も何度か起きている。以下は、2010年の大洪水の後に書かれた現地報告だ。

 「日本では1級河川なら数百年に一度の洪水に堪え得るように基準が設けられ、膨大な努力がつぎ込まれている。だが、これとても記録に基づく確率である。それが定期的に来るわけではない。普段は穏やかな川も、一転してどう猛な表情となる。自然は自然の論理によって動く。人の善悪の彼岸で、生殺与奪の権を握っている。

 古くは衣服などの単純な道具から、近代技術に至るまで、人は自分を自然から遮断することで生き延びてきた。その運命的な矛盾といかに折り合うのか。『自然保護』もまた、倒錯した言葉に思える。我々が自然の許しによって生かされてきたからだ。

 水利工事に携わり、生死を扱う一介の医師にとって、今回の大洪水は、自然から突き付けられた一つの暗示である。自然との共存が今ほど切実に求められる時代はなかった。洪水の最中、無人機爆撃のごときは許されない。生かされる恵みと感謝を忘れた人間の倒錯の極みだと言わねばならない。

 今秋から我々が実施する大自然相手の一大工事は、洪水災害予防の意味をも帯びてきた。確かに工事もまた、人為の所作であろう。だが人為と自然のはざまで思うのは、『環境問題』ではなく、『自然との和解』である。現地は今、戦争どころではないのだ。」(2010年夏)

 

 最近、これと通じるアイヌの言葉を知った。

 知り合いの写真家、宇井眞紀子さんは1992年からアイヌ民族を取材し続け、北海道・二風谷(にぶたに)在住のアイヌ女性アシリレラ(日本名・山道康子)さんと彼女の元に集う人々の写真を撮った作品群がある。

マタンプシ(はちまき)に刺繍をしながら、けんかをして泣く孫のアカネちゃんをあやすアシリレラさん。宇井眞紀子撮影(ナショナルジオグラフィック2012年3月号)

 子どもが誤ってコップの水をこぼしたとき、周りの大人がこう言った。「あー、そこに水を飲みたい人がいたんだねー」。宇井さんはそのおおらかさに感動したという。

 また、こんな言葉にも驚かされたという。

 「自然を保護するなんて大それたこと。人間は自然の一部で自然の中で生かされているんだから」。(赤旗日曜版6月25日号より)

 自然と人間を分離したのが「近代」。その延長上にいま、「世界的な終末」が始まっている。

 近代の前に戻ることはできないが、かつての自然の一部と感じる心を取り戻し、遮断した自然と「和解」しなければならない。