首都圏は連日30度を超える暑さ。エアコンを29度に設定して「除湿」をかけている。十分涼しい。
豪雨被害が出ている地域にはお見舞い申し上げます。
つい先日、昔の同級生が亡くなったとの知らせがあった。そのうち会おうと思っていたが、叶わず残念だ。訃報から蓮の花を連想して近くのお寺に行くと、ほとんどが蕾だったがいくつか咲き始めていた。
住職が「来週は一斉に咲く」と言うので、また来よう。
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ジャーナリストの有田芳生さんが先月12日放送の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」に出演したことがニュースになっていた。
有田さんは去年8月の日テレ系「スッキリ」で、統一協会について「霊感商法をやってきた反社会的集団だというのは警察庁も認めている」などと発言。10月19日放送の「ゴールデンラジオ」に出演した8日後の27日、教団から「スッキリ」での発言で名誉棄損されたとして東京地裁に提訴された。提訴のあと、テレビ、ラジオの出演がパタッと止まっていたが、8カ月ぶりに出演の声がかかったというのだ。
10日ほど前に有田さんに会ったさい、テレビも復活ですか?と言うと、いやあのラジオ番組一回だけで、テレビなんかは出演依頼ぜんぜんないよとのこと。日本の放送メディアの軟弱なことよ。
スラップ訴訟(たくさんのお金、時間、労力を裁判で使わせて消耗させることにより言論を封殺する目的で起こす訴訟)がはびこるのは、メディアを萎縮させることに実際に効果があるからだ。取り締まるべし。
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NHKBSプレミアムで『映像の世紀バタフライエフェクト ビートルズの革命 そしてルーシーは宇宙を行く』を観た。
60年代、世界を熱狂させたビートルズが、ソ連・東欧の若者を動かし、民主化革命の大きなきっかけを作ったという。歌の力、である。私も中学高校時代、夢中になったので興味深かった。
当時、ソ連では西側の流行歌は退廃的だと禁止されていて、当然ビートルズもご法度。長髪の人が連行されて髪を切られるなどの弾圧を受けるが、若者たちは憧れを募らせ、エレキギターを自作し、密かに海賊版を聴いていた。
「ビートルズは音楽的な安らぎの源だっただけではない。スターリン主義の退屈で無意味な儀式とは違う僕ら自身の世界を創る手助けをしてくれた。僕らはビートルズをしんじることで、その一部を静かに拒否していた」(ソ連のビートルズファンの回想)
ところがソ連の中で、バルト三国の一つ、人口130万人と小さいエストニアは、取り締まりが緩かった。ロックコンサートも開かれ、ビートルズの「キャント・バイ・ミー・ラブ」だけを45分流し続けるラジオ局があったりした。イヴォ・リンナというエストニアの17歳の青年がビートルズにはまった。彼は「ヘイ・ジュード」をエストニア語でカバー、スターダムにのし上がっていく。
1985年3月、ゴルバチョフがソ連共産党の書記長に就任、ペレストロイカが始まる。ビートルズも解禁になり、ビートルズの曲にロシア語の反体制的な歌詞をつけてコンサートで歌われ若者たちは熱狂した。
1988年、エストニアで30万人を集めた大ライブ・コンサートが開かれ、国民的スターになっていたイヴォ・リンナが歌ったのはオリジナル曲の「私はエストニア人」。民族の誇りを歌い上げるその歌は大合唱となり、みなが手を取り合い、隠し持っていたエストニア国旗を振った。ここから「歌の革命」が始まった。
ゴルバチョフはエストニアを訪問してソ連に留まるよう説得したが、民族感情の噴出は抑えられなかった。この動きはエストニアから隣国のラトビア、リトアニアへと広がり、バルト三国の独立を要求する人間の鎖には、人口の4分の1の200万人が参加した。1988年11月16日、ソ連で最初に主権宣言をしたのがエストニアで、他の構成国がつづき、91年にソ連邦は崩壊する。
エストニアの合唱祭は有名で、私は1982年6月の合唱祭を取材した。数万人が民族衣装を着て声を合わせて歌うのは大迫力だった。この伝統のノリの良さは音楽の革命のときに大いに発揮されたことだろう。
「歌の革命」を主導したリンナは、こう言っている。
「ビートルズに出会ったからこそ、音楽の世界に飛び込み、そして『歌の革命』に参加した。すべての始まりは、ビートルズだった」
この番組を観て、東ドイツのニナ・ハーゲンを思い出した。
ベトナム戦争に反対する「ウィーシャルオーバーカム」。
香港民主化運動で作られデモのたびに歌われた「香港に栄光あれ」。
歌の力はすばらしい。日本で心を一つにして歌える歌はいつできるだろう。