節季は穀雨(こくう)で、恵みの雨が生き物をはぐくんでいく。
(先月植えたエンドウが、雨のなか花を咲かせた)
初候は「葭始生(あし、はじめてしょうず)」で20日から。25日から次候「霜止苗出(しもやみて、なえいずる)」。30日からが末候「牡丹華(ぼたん、はなさく)」。
「葦原の国」はそろそろ田植えの準備に入る。
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18日(月)放送の『映像の世紀バタフライエフェクト』「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」を非常に興味深く観た。
メルケルとプーチンの因縁のパートは今のトピックとの関連を考えさせられる。
メルケルは西ドイツのハンブルク生まれだが、生後間もなく、父親が社会主義に傾倒して東ドイツに一家で移住した。子どものころからシュタージ(秘密警察)の存在を日常的に意識する暮らしだったとメルケルは回想する。長電話をしているだけで母親が「シュタージに盗聴されるから早く切りなさい」というほどだった。
壁崩壊のときメルケルは35歳で、アインシュタインの相対性理論に惹かれ、科学アカデミーの物理学者になっていた。エリートコースだったが、窮屈で未来の見えない閉塞感のなか、研究のルーティンをこなすだけの日々で、同僚は当時の彼女を「熱意を見せることといえばサイクリングの話をする時だけ」の「魂を失った人間」だったと評する。
(35歳のメルケル)
この番組は3人の女性を追う形で壁崩壊からメルケル引退までを描いていて、メルケルの他には、歌手のニナ・ハーゲンと画家のカトリン・ハッテンハウアーが登場する。
ニナは1955年生まれで、54年生まれのメルケルとは一歳違い。19歳のとき、『カラーフィルムを忘れたのね』という歌が東ドイツで爆発的な人気を博する。
(ニナ・ハーゲン)
恋人とビーチに遊びに行ったら、彼がカラーフィルムを忘れてしまって、白黒にしか映らないのを嘆く歌だ。
ミヒャ、私のミヒャ、何もかも辛いわ。
あなたはカラーフィルムを忘れたのよ。
誰も信じてくれない、ここがどんなにすてきだったかって。
なんてひどいの、熱い涙がこぼれる。
この景色も私も、全部が白黒なの。
検閲による禁止を免れたこの歌は、東ドイツの現実を色のない白黒写真と表現したと誰にも分かり、大ヒットとなった。
20歳だったメルケルは、この曲をレコードが擦り切れるほど聞いたという。
(「カラーフィルムを忘れたのね」はメルケルの「青春時代のハイライト」だったという)
ニナはシュタージの監視対象となり、1976年に西ドイツに亡命。パンクロックのスターになっていく。
もう一人の女性、カトリンは、世界中を旅して絵を描く夢をもつライプツィヒの画学生だった。自由に旅行を許されないことへの憤りが抑えきれなくなり、1989年9月4日、行動に出た。
当局に許可なく多くの人が集まることができる教会の月曜礼拝のあと、「自由な人々による開かれた国」のスローガンの横断幕を掲げてアピールしたのだ。次第に人々が加わって大きなデモになっていくが、シュタージが介入して弾圧、カトリンも逮捕されて自宅軟禁になる。
しかし、この騒動はフランスのTVを通じて東ドイツ国民が知るところとなり、旅行の自由を求める「月曜デモ」が全土で吹き荒れる。
ソ連ではちょうどゴルバチョフが「改革」に乗り出していたこともあり、人々の不満を抑えるため、ドイツの共産党(社会主義統一党)は11月9日、中央委員会を開いて、ビザがあれば国外への旅行の申請が可能だとする政令を決める。
その夕方、中央委についての記者会見で、シャボウスキー政治局員は歴史を変える言い間違いをしてしまう。「外国への私的な旅行の申請は、目的や親戚関係などを明記せずとも許可される」と語り、いつ発効かとの質問に「即座に」と答えたのだ。本当は明日から発効であり、またビザが必要であることも言い忘れた。
これがテレビニュースで流れたあとの夜8時35分、東ベルリンのボルンホルム検問所には多くの人々が西ベルリンに行かせろと押し寄せた。
ここでもう一つのボタンの掛け違いが起きる。この検問所の責任者、ハラルド・イエーガーが、上司に指示を仰ごうと電話をするが通じない。群衆は膨れ上がり、暴動寸前になる。警備兵が発砲でもしたら大変なことになると憂慮したイエーガーは、独断でゲートを開け、検問なしですべての人を出国させるよう命じたのだった。
数万の人々が歓喜の声を上げながら西側にあふれ出て、誰彼構わず抱き合った。感激に涙にくれる人も多かった。
メルケルは週に一度の楽しみのサウナの帰り道、人々の波についていくと、西ベルリンに出た。生まれて初めて西側のビールを飲んだと思い出を語る。
ベルリンの壁はこうして崩壊した。
これを見ると、限界を迎えた体制は、いくつかの条件がたまたま現れると、一気に崩壊することがわかる。北朝鮮の体制もいつ何が起きても不思議ではないと私は思っている。もとい。
東ドイツでも自由な選挙が行われることになり、メルケルは研究者を辞めて政治の世界に飛び込む。「政治の世界を選んだのは、使い古されていない新しい人々が必要とされていたからです。それに、人々とより関わりあう仕事に就きたいと願っていたのです。」(メルケル)
統一後の国会議員選挙で当選したメルケルは、91年1月、いきなり女性・青少年担当大臣というポストに抜擢される。最年少、しかも東出身の女性の大臣として注目され、その後実力が認められてキリスト教民主同盟のトップに、そして2005年、ついに首相に昇りつめた。
(総選挙後のテレビ討論で、笑顔で政敵をやり込めるメルケル)
メルケルの最大の決断とされるのが2015年の難民受け入れ宣言だ。
欧州各国が大量の難民受け入れに難色を示すなか、ドイツはシリアなどからの難民100万人を15年中に受け入れる。人口比でいえば、日本が一年に150万人を受け入れたことになる。
多くの激しい非難がメルケルに浴びせられた。特に経済発展が遅れていた東ドイツでは、難民に職を奪われるとの不満が噴出しメルケルを「裏切り者」と罵る声まであった。
しかし、メルケルは全く動じなかった。自らがかつて圧政に苦しみ自由を希求した原点を政治哲学の基礎に置いていたからだ。
メルケルの窮地に、89年の月曜デモを始めたカトリンたちが支援のアピールを出す。そこにはあのスローガン「自由な人々による開かれた国」があった。
メルケルとは、熱いロマンと力強い実行力とを兼ね備えたすごい政治家だなとあらためて感じ入った。
ところで、プーチンだが、実は彼もまた壁崩壊のとき東ドイツにいた。
KGBの下っ端工作員として東ベルリンに駐在していたプーチンは、壁崩壊を目の当たりにして衝撃を受ける。この時の屈辱がトラウマとなり、「西側」への根深い憎悪と警戒感を彼に植え付けたとの見方がある。
メルケルは15歳のときロシア語コンテストで優勝したほどロシア語は完璧だし、プーチンは、ドイツ語に堪能だから、二人が会えば通訳抜きで丁々発止の議論をしていたという。
(メルケルが犬嫌いであることを知って、わざと会談の場に大型犬を入れたプーチン。メルケルは「人の弱みをつかんで利用するKGBの典型的なやり方だ」と評した)
何よりメルケルはロシアの属国、東ドイツで育ち、ロシア人のやり方を裏の裏まで心得ている。会見でプーチンを厳しく批判したり、大事な問題では一歩も引かない姿勢を見せながらも、したたかにロシアとの妥協点を模索してきた。
プーチンが、会見で犬をけしかけたり露骨な嫌がらせまでしたこと自体、いかにメルケルの「圧力」を煙たがっていたかを示している。
その点、我が国の安倍首相など、まさにポチのように露骨にプーチンに擦り寄る醜態を見せて、我々日本国民は恥ずかしい思いをしたものだ。
もしメルケルが今もドイツの首相だったら、プーチンのウクライナ侵攻をひょっとして食い止められたか、それは無理でも、今とは違った展開になったのではないかと私は思うのだが、どうだろうか。
(首相退任にあたってのスピーチ)
去年12月2日の首相退任式。本人が好きな曲が演奏されるのだが、そこで選ばれたのは、「カラーフィルムを忘れたのね」だった。軍楽隊はこの選曲に戸惑ったという。普通は荘厳なクラシックなどが選ばれるのに、楽譜があるかどうかもわからない昔の流行歌がリクエストされたのだ。
「この景色も私も、全部が白黒なの」
聴き入るアンゲラ・メルケルの目に涙が光っていた。
16年にわたる首相在任期間だけでなく、自由を求めた青春期の自分も脳裏に浮かんだことだろう。
すごいな、メルケル。歴史に残る名宰相として語り継がれるだろう。
ベルリンの壁の崩壊には、ロックミュージックが大きな役割を果たしたことを描いたNHK BSプレミアム『アナザーストーリーズ「ロックが壊したベルリンの壁」』という番組もおもしろかった。これについては後日書いてみたい。
《ベルリンの壁崩壊。その2年前に壁の西側で歌ったデヴィッド・ボウイ(David Bowie)。壁の東側は大騒動に。さらにブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)も異例のコンサートを行って…。音楽が壁崩壊に果たした役割をコンサート関係者、旧東ドイツ市民などが今、明らかにする》(番組広報より)