ウクライナでは、多くの市民が自発的に祖国の防衛に立ち上がり、侵略者ロシア軍に激しく抵抗しているという。
ウクライナはチェルノブイリ原発の取材で1990年と東日本大震災直後(2011年)の2回訪れていて、ご縁のあるところだ。
いま激戦中という首都キエフでは、チェルノブイリ事故博物館や内分泌関係の病院はじめさまざまなところを取材し多くの人にお世話になった。東日本大震災の直後で、市民たちは「フクシマ」の事故を知っており、私たちが日本から取材に来たとわかると、涙を流して「お気の毒に」「はやく元の暮らしに戻れますように」と同情してくれた。
2回の取材とも、原発の近くにあるジトーミル州のナロジチという地区を中心に取材した。愛知県の「チェルノブイリ救援・中部」という市民団体がながく支援を行っており、2011年には竹内さんという常駐の日本人がいて取材に便宜をはかってもらった。
ナロジチはベラルーシとの国境近くで、ロシア軍がキエフめざして南下するときに通過するポイントだというニュースが流れた。原発事故で痛めつけられたうえに戦争にまで見舞われてはたまらない。
「チェルノブイリ救援・中部」がナロジチ住民に連絡を取ったところ、自宅から30分の飛行場がロシアの爆撃を受けているという。心配だ。みなさんの無事を祈ります。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d3aec2e26e412f4f11aa80488ac80c958e8fb2e
プーチンは「ロシアとウクライナは一体」だというが、この二つの共同体の因縁は独特なものがある。
「戦艦ポチョムキン」や「ホロドモール」(犠牲者数百万人ともいわれる、共産主義革命による最初の人工的飢饉)はじめ、とりわけ共産化の過程でのロシアの圧迫による苦しみ、それへの抵抗はウクライナ史の縦軸(の一つ)になっているように思う。
1986年4月のチェルノブイリ原発事故もその重要なエピソードの一つで、ウクライナ共産党をモスクワに反逆させ、1988年11月のエストニアの主権宣言以下、ソ連崩壊への筋道をつけたのだった。
いったいプーチンは何を考えているのか。
プーチンは、「(レーニンの)考えは、ソ連邦の崩壊をもたらした。そこには、自治など多くの考えがあった。つまり、ロシアという建物の下に、原子爆弾をセットしたのだ。ロシアは、その後、大爆発を起こした。世界革命なども、我々には必要ではなかった」(2016年1月)と語っている。レーニンが民族自決権を認めて共和国に分離させたことがよくなかったというのだ。
今回のウクライナへの軍事作戦は、構図としては、ハンガリー動乱やプラハの春の時のような勢力圏死守のための侵攻に近いが、プーチンは「ソ連邦」に戻りたいのではなく、「ロシア帝国」を復活させようとしているのだろう。
テレビニュースの映像で、ロシアの侵攻下、泣く老人や不安におびえる子どもを見るのはつらい。市民の犠牲もどんどん増えている。プーチンの非道は許されない。
「戦争はいけないが、ロシアにも言い分がある」という議論が見受けられるが、事ここに至っては、ウクライナを支援してロシア軍を撤退させることに集中すべきだ。ロシアに対しては「戦争やめろ」、ウクライナには「がんばれ」と。
ロシアがウクライナを一部占拠しながら戦闘が続く状態が長期化する可能性があるが、「どっちもどっち」にならぬよう警戒しよう。あくまでプーチン=ロシア軍糾弾!
今回勇気づけられたことは、世界中で政治的立場を超えて、ロシア糾弾の動きが広がっていることだ。
特にロシア人が戦争をするなと立ち上がっていることに注目したい。ロシアでは反戦デモですでに6000人が逮捕されたという。ロシア国内の反戦、反プーチンの声が高まることを期待する。