中村哲医師とフランクル7

 白樺派の作家、武者小路実篤(さねあつ)の「新しき村が、「村民」が3人まで減って、大きな転機を迎えているという。「新しき村」って、まだあったのか。

新しき村」の入り口。埼玉県公式チャンネル「サイタマどうが」より

 50代以下は知らない人が多いと思うが、「新しき村」とは、近代的な個を尊重しながら、自然と親しみ共に生きていくという実篤の理念のもとに1918年に開かれた農業共同体。理想の共同体をつくる運動の草分けのような存在だった。記事によれば―

朝日新聞13日夕刊1面

「埼玉県毛呂山町の本拠地の面積は10ヘクタール。村で暮らす『村内会員』(3人)と、会費を支払って村を支える「村外会員」(約160人)がいる。村内会員は生活費の負担がなく、毎月3万5千円の支給を受けられる。」「現在、40~70代の男性3人が暮らし、協力しながら無農薬で米や茶を栽培している。」

 60,70年代には若者の入村や出産が相次ぎ、幼稚園もできて、人口は最盛期で60人を超えたこともあったが、その後は高齢化と人口減少が進んで、開村から100年以上たった今、存亡の危機にあるという。そこで、再生に向けて新たなチャレンジが始まったという話だ。

 たまたま実篤の詩を読んでいた。

 平和   武者小路実篤

峠の上から
人々の働いているのを見ると
平和そのものゝやうだ
麦をかつてゐる者
田植えをしている者
馬で畑を耕してゐる者
仔馬は母親の廻りをとびはねてゐる
それを太陽は慈悲深く
しかし厳かに照らしてゐる
平和そのもののやうだ
平和の神は太陽と共に
この世を照らしてゐるのだが
人々はまだそれを受入れることが
出来ないのではないか。
神は人々と共に働いてゐるのだが
人々はそれに気づかないのではないか。

 

 あまりの単純明快さに反発する天の邪鬼な気持ちさえ頭をもたげるが、しかし、今の爭いごとばかりの世相をみると、そうだよなあ、と頷かざるをえない。

 平和の神が「太陽と共にこの世を照らしてゐる」というイメージには、人と人、人と自然が共生するのを「摂理」とみる中村哲医師の思想に通じるものがあると思う。真理は単純なものの中にあるのか。
・・・・・・・

 ビクトール・フランクルは、人生の問いは、一般的にではなく、具体的に、そのとき、その場で問われてくるという。

 中村哲医師の足跡を辿っていくと、医師として判断を迫られる状況の厳しさに圧倒される。

 中村さんは、ある講演で、「95%の医療をしたら100円かかる、90%なら20円で済む、という時に90%でできるだけ多くの人を治療するほうを選ぶ」と語っている。

 さらに―
「病人自身だけでなく、周りの家族にとってもなるべく不幸にならないようにという配慮をします。植物状態になって家族に負担がかかるだろうという場合はある程度恐ろしい判断をしなくてはならないこともある。家族に『どうしますか』というのは残酷な問いです」(SWITCH Jan 2002)

 1994年3月、医者を見たこともない人がたくさんいるような、アフガニスタンの奥地ヌーリスタンの診療所開設のため、中村さんは偵察診療隊を率いて、ある渓谷に滞在していた。ソ連軍の撤退後、軍閥同士の抗争で治安が最悪だったころのことである。

 夕刻、2人の重症患者が運ばれてきた。空き家のはずのきこり小屋に入ったところ、入り口に仕掛けられていた地雷が爆発して2人の足を直撃。2人の患者は山道を9時間かけて運ばれてきて、息も絶えだえだった。

 一人は、両下肢をふくらはぎから吹き飛ばされ、右の太腿にもひどい傷があった。もう一人の方は、右下肢のみ足関節から吹き飛ばされ、脛骨の関節面が崩れた肉塊から突き出していた。

「とりあえずは救急処置を施してペシャワールへ送り、きちんとした切断手術を病院で行って、義足で歩行させるのが筋」だった。

 しかし、中村さんは両下肢に負傷した患者の方は「初めから救命処置を考えなかった。儀式的に点滴をして安心させ、中途で死亡することを承知で下手の町に搬送させた。下手の町まで五時間は優にかかるので、生きて着くまいと思った。おそらく日本では想像がつくまいが、険しい山岳地帯の生活は厳しく、車椅子生活など考えられないからである。もし助命したとなれば、家族はこれを放置しない。そのために全財産をはたいて、みなが破滅してしまうのは分かりきっている。」

 そして、片足負傷の者だけを、まともな設備も輸血の準備もなしの状況で、懐中電灯を頼りに2時間の救命手術を行った。手術用のノコがなかったので、配管工事用のノコにアルコールをかけて焼いて消毒し、それで脛骨を切断した。

 その後、ペシャワールPMS病院で再手術を行って、義足で歩けるようになった。簡単な作業くらいは出来るようになるだろう。

 中村さんは恐ろしい判断を下している。

 「私が下した判断が普遍的な意味で、正当であったか否かは分からない。日本であれば告発されたことであろう。それでも現地では助けられた方が『幸運』なのであって、『神に目をかけられた』生命を喜ぶのである。(略)死が身近にあるだけ生も輝きを増す。これは極限状態に近い難民キャンプでも同様であった。これを『遅れていて不幸だ』とか、『可哀そうに』とみなしがちであるが、彼らの実生活、その精神生活にふれた者ならば、異なる感想を抱くにちがいない。」(『辺境で診る 辺境から見る』P999-100)

 中村さんは緊急手術のあと、満点の星を見上げて、「命の値踏み」について考える。

北極星を探して東を定め、遠い日本に思いを馳せる。そして、意図的に処置をしなかったもう一人の負傷者の不安な表情が、悲しく流れ星のように心をよぎった。

 十年前なら、私も医療事情に悪さと、先進国との余りの格差に悲憤したことだろう。しかし、何故か重苦しくは考えることができなかった。ここでは、生も死も、悠久の自然の中に渾然と溶け合っている。「臓器移植」、「脳死」、どうでもよい小さなことだった。それもまた、私たちとは余りに遠い、賢しい議論としか思えなかった。確かなのは、文明国日本では人間の生死の定義について『マニュアル』が要り、元来割り切れぬ人間的自然に対しフィクションが必要になってきたということであろう。その善し悪しをとやかく言いたくない。だが、少なくともここ極貧の『文明の辺境』では、分を越えた生への執着や『不安の運動』から、私たちが自由であることに感謝した。」(『医は国境を越えて』P170~174)

『医は国境を越えて』(石風社

 過酷な状況に直面し、日々刻々答えを出しながら中村さんの人生が編まれ、中村哲という人間がつくられてきた。

 人間とは、命とは、幸せとは何かについての深い洞察が出て来る源泉を見る思いがする。

(終わり)