いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし


 アフガニスタン取材について年内に二つネット記事を公開しました。

 来年も発信を続けますので、よろしくお願いします。

 デイリー新潮「アフガニスタン 日本人記者が『地下学校』に潜入取材 タリバンの女子教育禁止に広がる抵抗」

www.dailyshincho.jp

 

 高世仁のニュース・パンフォーカス「アフガニスタン・リポート① 経済崩壊で危機に立つカブールの市民たち」

www.tsunagi-media.jp

 

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 いのちには終る時ありそれ故に互いの“今”をいかしあひたし
 
 5月に亡くなった遠藤滋さん(享年74)は、脳性まひで歩行や会話に不自由を抱えつつ、学生運動や社会活動に積極的に参加。病が進行するなか、50代半ばになって短歌を詠み始め、介助者がかすかな声を聞きとってパソコンに入力していった。今から一年前の去年12月、最初で最後の歌集『いのちゆいのちへ』が刊行された。そのあとがきに遠藤さんはこう記した。

 「『自らのいのちをいかすこと』。これはなにも障害をもつ者に限らずいえることではないか。だとしたら、なんという奇跡だろうか」。
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 今月亡くなった渡辺京二さんの言葉が朝日新聞朝刊の『折々のことば』に取り上げられていた。

自分が住んでいるところが、自分が世界と向き合っているところが接点だからね
               渡辺京二

 明治になるまでは、「できるやつ」は江戸に学問に行っても、やがて国に戻り、塾を開いて後進の指導にあたったものだと、熊本在住の評論家は言う。東京という〈中心〉を経由してではなく、自分が今住んでいるその場所で世界とじかに向き合う仕事をしなければならない。拠点をもつというのもきっとそういうことなのだろう。坂口恭平との対談(「アルテリ」14号)から。(10月7日)

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 今年も一年、読んでいただきありがとうございました。
 よいお年をお迎えください。みなさまの安寧をお祈りします。