野村旗守さんの逝去によせて~「朝銀」取材の思い出

 ご縁のあるジャーナリスト、野村旗守(はたる)さんが亡くなった。58歳だった。(生年が1963年なので59歳と記したが、葬儀の場で12月生まれと知り58歳と訂正します)

(野村さんのブログより)

 野村さんと取材をともにし、総連の妨害のなか、歴史的な番組を放送することができたことを今も誇りに思っている。その思い出の一端を記してみたい。

 私が代表をつとめていた「ジン・ネット」は、野村さんとともに朝鮮総連系の金融機関「朝銀」(朝銀信用組合)の乱脈融資の実態と北朝鮮への不正送金を取材し、2000年4月と01年12月、テレ朝「サンデープロジェクト」で放送した。

 野村さんは私たちに先んじて取材を進めており、すでに99年6月に北朝鮮「送金疑惑」―解明 日朝秘密資金ルート』という本を出版していた。

 私たちは1997年に横田めぐみさんの拉致疑惑を報じており、ここから堰を切ったように北朝鮮に対する批判的な報道がなされるようになっていた。「よろこび組」など北朝鮮のリーダーのスキャンダラスな私生活に関する報道も出てきて、メディアの「総連タブー」は崩れつつあったが、総連の「金庫」とも「財布」ともいわれた朝銀は最後に残った取材対象だった。ここに切り込んだのが、朝日新聞の「アエラ」の長谷川熙(ひろし)さんと野村旗守さんだった。(長谷川熙さんは、1997年2月4日発売の「アエラ」で、横田めぐみさんの拉致疑惑をめぐみさんの実名を出して初めて書いたことで知られる) 

 なぜ朝銀を扱いにくいかというと、総連のお金、それも巨額の「闇」の金がからむ問題は、触るのが怖いのである。北朝鮮工作機関はもちろん日本の「ウラ」の社会、さらには日本の政治権力ともつながっている。そこにフリーという後ろ盾のない立場で果敢に飛び込んでいった野村さんの勇気を称えたい。

 彼の最大の功績は、朝鮮総連中央本部財政局副局長として「総連の収入・支出をすべてチェックする仕事」をしてきた、いわば総連の「金庫番」ともいえる韓光煕(ハングァンヒ)氏口説き落として内部告発をさせたことだ。ここから、01年11月の彼の上司だった財政局長の逮捕、さらには朝鮮総連始まって以来のガサ入れへと事態は進んでいった。歴史を動かす取材だったのである。

 私たちは野村さんに、彼の取材成果をも使いながらさらに深く取材し、テレビで放送したいと提案し、タッグを組むことになった。1998年のことである。

 私たちが取材した乱脈融資の一例としては、朝鮮大学校や各地の朝鮮学校(初級学校、中高級学校)を舞台にした詐欺的な手法がある。まずは学校の土地を担保に、日本の金融機関から担保価値ぎりぎりの額まで借りる。その上で、すでに担保価値のない学校の土地を担保に朝銀から多額の金を借りるのだ。もちろん返す当てのない金である。こうして借りまくった金を地上げ事業に投資したが、多くは失敗して多額の負債を抱え込んだという。

 北朝鮮への不正送金について、韓光煕氏は、金正日の指令にもとづき、総連本部4階の大金庫から大量の札束を新潟まで運んで大型客船「万景峰92号」に積み込むシステムを詳細に証言。総連新潟県本部2階で現金を紙袋に小分けし、船に乗り込む祖国訪問の在日朝鮮人たちに持たせる。この方法だけでおよそ300億円が北に送られた。実際はその何倍もの金が行っているはずと韓氏はいう。

 放送後、抗議が来るのは目に見えていたから、取材はしっかり裏を取りながら広く深く進めていった。私も取材の一部を担い、自殺した朝銀社員の家族や朝銀の裏事情に詳しい人物をターゲットに、泣かれたり、怒鳴られたりしながら接触を試みたことを思い出す。

 第一弾は2月27日(日)放送と決まり、それに向けて準備していたとき「事件」が起きた。急に放送は「延期」になったと告げられたのだ。

 報道系番組では、放送日直前に大きな事件が起きて予定していた特集が放送できないことはよくある。しかし、それとは明らかに違う。

 テレ朝内部から、取材を察知した朝鮮総連がテレ朝の幹部に放送中止を働きかけているとの情報がもたらされた。また同じころ、別の筋から、テレ朝局内の怪しい動き―局の幹部のH氏が、引田天功北朝鮮に連れていって金正日に独占インタビューすることになっていること、夕方ニュースで北朝鮮覚醒剤密輸の放送を予定していたら、局の「エライさん」が編集ブースまで直々にやってきて亡命者インタビューのカットを命じたことなどを知った。

 ここで一つ困ったことが起きた。野村旗守さんが、2月27日の放送を前提に、28日発売の『週刊現代』に韓氏の告発をもとにした記事「金正日への秘密資金300億円を私はこうして運んだ」を寄稿していたのだ。
 当時サンデープロジェクトのプロデューサーはABC(大阪朝日放送)のEさんだったが、放送が延びた以上、その記事を差し止めてくれと強く要請してきた。その要請に、野村さんと私たちは応じず、結局その記事が載ったまま雑誌は発売された。

週刊現代3月11日号記事


 このままでは、朝銀ネタは“お蔵入り”かと危惧した私たちは野村さんとも相談し、もしこのまま放送が延び延びになるなら、取材したビデオテープと資料すべてを他局に持って行こうと決めた。

 そこに『週刊文春』が動いた。3月5日(日)の夜、ジャーナリストの加藤昭氏から私に電話がきて、テレ朝が「朝銀」企画をつぶしたと次号で書くという。
 7日(火)Eプロデューサーが突然ジン・ネットにやってきた。週刊誌から取材が入り、テレ朝幹部が責任をサンプロに押し付けていると憤然としている。サンデープロジェクトという番組はテレビ朝日とABC(朝日放送)が半分づつ出し合って製作しており、総連に屈しているのはテレ朝の方で、朝日放送は放送すべきだという考えだという。

 ちなみに、別のケースで部落解放同盟から圧力がかかったときには大阪のABCがすぐに腰砕けになったが、テレ朝が持ちこたえて放送できた。この2局のバランスの下でサンプロはさまざまな「タブー」を扱うことができたと思っている。

週刊文春』3月16日号(3月9日発売)記事

 8日(水)、『週刊文春』の記事の内容が明らかになった。朝鮮総連の圧力に屈した「サンデープロジェクト」放送中止事件」のタイトルで「発端は昨秋、北朝鮮に関するドキュメンタリー番組制作で名高い」「A社がテレ朝側に企画を持ちこんだことに始まる」とジン・ネットも登場する。テレ朝関係者のこんな証言も―

「(総聯は)対策会議を開き、テレ朝に“放送中止”を要請することを決定。二月初旬には、報道担当の南昇祐副議長がテレ朝に乗り込んだのです。応対したのはテレビ朝日取締役(前報道局長)のH氏と、朝日放送東京支社報道部長のI氏だそうです。」

 総連側が提示した取引条件は二つ。一つは4月5日からの「金日成首領生誕記念春の祝賀式典」の最大のイベントが引田天功のマジック・ショーだが、引田天功金正日の歓談風景をテレ朝に撮影させる。二つ目はスパイ容疑で当時北朝鮮に抑留されていた元日経新聞記者、杉嶋岑氏が釈放されたとき、最初のインタビューをテレ朝とするよう取り計らう、というものだったという。

 記事は最後に、もし朝銀特集を“お蔵入り”させたら、「サンデープロジェクト」の名が泣こうというものだ、と結んでいる。

 そして迎えた次の放送日、3月12日(日)の番組冒頭、MCの田原総一郎氏がいきなり『週刊文春』をかざしながら、こんなことが書いてあるが、どうなんだ!とEプロデューサーを呼んだ。カメラはフロアのEプロデューサーを映した。
Eさん「放送を前提に取材が続いています。」
田原氏「必ず放送するんだな」
Eさん「放送します」というやり取り。
 これで視聴者の前で放送を約束してしたことになる。”お蔵入り”策動は不発に終わり、朝銀の特集は4月16日(日)に放送された。

 特集の前のコーナーに石原慎太郎都知事が出ていて、トークのコーナーが終わっても、このまま残るとフロアで特集を最後まで視聴していた。当時は放送後に昼食会があったが、石原知事が野村さんと私たちのテーブルにやってきて「朝銀の問題はちゃんとやらんといかん」と高揚した声で語っていた。

 翌日は張龍雲さんから電話で「よくやってくれた」との言葉をいただいたほか、多くの方から激励が寄せられた。(張氏は、田中実さん、金田龍光さんの拉致について証言した元工作員https://takase.hatenablog.jp/entry/20211210参照)

 結果として、週刊誌の記事が、番組のお蔵入りを阻止したわけだ。

 テレ朝幹部の中には、ジン・ネットが放送させるために週刊誌にたれ込んだのだろうと言う人もいたそうだが、そんなことはしていない。たれ込んだとすれば、露骨なメディアへの介入を許すテレビ局幹部に反発したテレ朝またはABCの誰かだろう。

 この放送は、世論や政治家の意識を変え、捜査当局の動きに大きな影響を与えたと思う。

 野村さんと私たちは取材を続け、「朝銀」の第二弾、《徹底追跡「北朝鮮送金疑惑〜血税1兆円投入!?朝銀破綻の真相」》が01年12月9日に放送されている。

 放送が近づいた11月28日、朝鮮総連元財政局長、康永官(カンヨングァン)氏が逮捕された。東京朝銀信用組合の資金流用事件での業務上横領容疑だった。翌29日には、朝鮮総連中央本部にガサ入れが入る。総連結成以来初めての強制捜査は、康容疑者の容疑を裏付けるためのものだった。私たちのサンプロの放送にタイミングを合わせたものだろうと推測した。

 すると放送直前になって、これまで自身と家族の身の安全のため顔を隠して証言していた韓光煕氏が、顔出しで告発すると言ってくれた。そこで12月6日(木)の夜、ジン・ネットの近くのホテルの部屋でインタビューを撮りなおした。脳梗塞を患い、歩行は不自由で、言葉もたどたどしい。その病身を押して顔出し取材に応じてくれた韓氏に報いなければと思った。私たちは熱い気持ちを持ったまま、徹夜の編集に入っていった。

 韓氏の覚悟を後押ししてくれたのはもちろん野村さんだ。韓氏は家族との確執も抱えており、野村さんはそうしたプライベートな相談にも乗って韓氏を支えていた。

 放送日二日前の7日(金)の夜、Eプロデューサーから、総連が放送をやめろとものすごい抗議をしてきたとの連絡が入る。

 朝鮮総連の財務の中心にいた大物が顔出しで爆弾証言をするこの特集は、大きな注目のなか、12月9日に放送された。

 総連側の反発はすさまじく、放送後、ジン・ネットに戻ろうとすると会社の入り口に60人ほどの抗議グループがいる。オフィスには誰もいなかったので、まもなく彼らは帰ったが、入り口には抗議文が貼ってあり、私たちがドアを開けてオフィスに入るや、すぐに抗議の電話がかかってきた。

 翌日から、手紙、ファクス、電話が殺到。ファクスだけで約200通来た。抗議団も連日押し寄せた。4名から7~8名の集団が朝から夕方までピンポンして面会を求めてきた。その中のいくつかは、朝鮮学校の教職員グループだった。

 彼らは私に言った。

「あんた方の報道で、朝鮮学校の女生徒の制服が切られたら責任を取ってもらう」。
抗議のファックスや手紙、電話などいずれも判で押したように、チマチョゴリ事件が起きたらどうするんだと書いてあり、明らかな組織的動員だった。

 当時は「ジン・ネット」と野村旗守さんや私たち取材に関わったスタッフが『朝鮮新報』などで名指しで罵られており、それぞれの家は警察の重点巡回対象になっていた。

 総連側からの抗議や悪罵を受けながら、野村さんと「おたがい気をつけようね」と苦笑しあったことを思い出す。

 困難な取材の突破口を開いた勇気ある野村旗守さんの功績を称え、ご冥福を心よりお祈りします。

野村さんとの共著(他に恵谷治、神浦元彰、宮塚利雄の各氏)

(つづく)