なぜ政府は2人の拉致被害者を見捨てるのか?(9)

 最近、近所の人ともっと知り合いになろうと思い、地域のシニア・カラオケ会に月に一度くらい参加している。

 時事ネタにひっかけた歌を唄おうと思って探したら、中島みゆきの「離卿の歌」に眼がとまった。歌詞がウクライナの避難民を連想させるのだ。

♪離れざるをえず離れた者たち  残さざるをえず残した者たち
♪汚れざるをえず汚れた者たち  埋もれざるをえず埋もれた者たち

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 嘆きのなか希望も感じさせるいい歌だな、と気に入り、5月末のカラオケ会ではこれを唄った。

 中島みゆきといえば、横田さん一家が新潟から東京に転勤して住んだ世田谷区代田の社宅のすぐそばに事務所兼自宅があったという。早紀江さんは、中島みゆきのお母さんと犬の散歩のとき言葉を交わしたりしたそうだ。

 横田家はめぐみさんがいなくなったあと犬を飼い、「リリー」と名付けた。中島みゆきの家の犬も横田家と同じシェトランドシープドッグで名は「あずき」。ただ、ともにメスで犬同士はあまり仲は良くなかったとか。

 きのう6月5日は、横田滋さんの命日だった。

 拉致問題をもっとも熱心に報じてきた新聞のひとつ新潟日報』のコラム「多面鏡」は、滋さんの命日にあたり、政府が「全拉致被害者の即時一括帰国」を口実に外交交渉を放棄してはならないと主張している。

政治が「即時一括帰国」の声を採用するふりをすることで、タフな外交交渉などの努力をしない言い訳にしているとしたら、怖い。

 不愉快な交渉も全否定せず、一人また一人と帰国させつつ全員帰国につなげていくことも、政治の役割なのではないか。

 5日はめぐみさんの父滋さんの命日。政府には、地道な行動を重ねてほしい
新潟日報 6月5日付)

 これは、拉致問題に関心を寄せるほとんどの人が賛同する意見だと思うが、どうだろうか。

 さて、前回の続き。

 救う会」とその取り巻きが、横田夫妻とウンギョンさんとの面会時の写真が公開されたことを激しく攻撃したのには、二つの理由があった。

 一つには、彼らが横田夫妻と孫のウンギョンさんの面会自体を歓迎しておらず、むしろ「運動」を阻害するものとみなしていたことだ。横田夫妻が楽しそうに微笑む写真が出ることは彼らにとって政治的に̠マイナスなのである。

 北朝鮮側が拉致被害者救出運動のシンボル的存在である横田夫妻を「懐柔」しようと狙っていることは確かだろう。ただ、これは当たり前のことで、どの国も自らの利害にもとづいて画策し行動する。外交とは、互いにそれを利用しながら妥協点をはかっていく作業である。

 そして「懐柔」されるかどうかはこちら次第だ。現に横田夫妻はウンギョンさんと面会したあとも拉致被害者の救出を訴え続け、活動を「おしまい」にしていない。

 逆に、この面会は、日朝間の接触を促すことで、拉致問題の進展の可能性を開いたのだった。

 横田夫妻は、ウンギョンさんとの家族写真の公開に反対していなかったばかりか、むしろ多くの人に見てほしいと思っていたのである。

 滋さんの命日の昨日から、新潟市を走るバスに、拉致問題啓発のための写真が展示されはじめたが、その中には、横田夫妻がウンギョンさんの娘と一緒に満面の笑みで映る写真も含まれている。

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横田夫妻がウンギョンさんの娘を抱いて微笑むモンゴルでの家族面会時の写真も展示されている(NHKニュース)


 多くの人の目に触れるバスへの写真の展示を、早紀江さんが喜んで了解していることは言うまでもない。なお川崎市を走るバスにも、これらの写真が展示されている。

 2016年の『週刊文春』でのモンゴルでの家族写真の掲載に、横田夫妻が反対したはずがないのである。反対だったのは「救う会」とその取り巻きだけなのだ。

 写真公開に激怒したもう一つの理由は、「救う会」に断りなしに拉致問題が動くことは許さないという独占欲であろう。まして「救う会」の完全統制下にあるはずの「家族会」のメンバー、とりわけその中心にいる横田夫妻に「よそ者」が接近するのは不届き千万、というわけだ。

 縄張りを荒らされたヤクザ組織の心境か。

 「救う会」が意見の異なる人々や団体を除名するなどして異分子を粛清し、硬直した組織になってきたことはすでに記した。集会は「うちわ」だけで盛り上がる右翼の政治集会の観を呈している。この状況に内心不満をもつ被害者家族もいたが「独裁体制」のもと、恐怖で黙っているしかない。「救う会」の運動は末期的な症状を見せている。

 横田滋さんは生前、親しい人の間では、「「救う会」の今のやり方では何も進まなくなる」と現状への危機感を隠さなかった。

 私が拉致被害者救出運動について問題提起をしているのも、横田滋さんの遺志を尊重してのことである。

 しかし、横田滋さんがもっとも強く批判していたのは「救う会」ではなかった。
(つづく)