どこを走っても花が咲いていて、この時期のポタリングは楽しい。
(野火止用水は春の真っ盛り)
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横田滋さんが亡くなってはや2年が経とうとしているが、きのう、コロナ禍でのびのびになっていた「横田滋さんを偲ぶ会」が川崎で開かれた。
(遺影に献花)
これはプライベートな会で、政治家や「救う会」などの運動体関係者はおらず、滋さんの元の職場の同僚や早紀江さんの教会関係者、近所の人たち、長い付き合いのジャーナリストなどが招待され、私も列席した。
遺族はじめ親しかった人たちが滋さんの思い出話を披露し、滋さんのめぐみさんへの深い思いに涙を誘われたり、知られざるひょうきんな一面に笑い声が上がったり、とても心に沁みる会だった。
早紀江さんは、拉致に翻弄された大変な人生だが、励ましてくださるみなさんの暖かさを感じてきた、すばらしいものをいただいたと思っていると感謝の念を表明したあと、一転して政府への厳しい注文を口にした。
「岸田総理で、総理大臣12代目です。そのたびに同じお願いをしてきました。もうさんざん言ってきたので、言いたいことありますかと聞かれても「言うことありません!」と強い口調になってしまいます」と。
ついで、2014年、孫のウンギョンさん一家にモンゴルで会った思い出話に。
ウンギョンさんのニコッと笑った丸い顔がめぐみさんにそっくりで驚いた、自分でつくった野菜をもってきて、手料理をふるまってくれた、と早紀江さんはうれしそうに次々にエピソードを紹介、「信じられないことが起きて、ほんとにすばらしい時間を過ごすことができました」「何という人生でしょうか。不思議な人生を歩ませていただいています」と語った。
滋さんが元気なうちにウンギョンさんに会うことができたことは、早紀江さんにとってせめてもの慰めになったようだ。
「主人はめぐみに会うためには時間が切れてしまいましたが、神様が、「もういいよ」と安らかなところに連れていって下さったと思っています」とも。
最後に、早紀江さんは、めぐみさんの事件は、「日本がこのままにしてはおけない」問題を提示したのではないかと結んだ。
私の隣の席は、新潟時代、近所に住んでいた方だった。
めぐみさんが行方不明になったあと、いつ帰ってきてもいいように、横田家は毎夜、門灯をつけっぱなしにしていた。それを見るのがたまらなかったと当時を振り返って涙ぐんでいた。
横田さん一家が、たくさんの人たちに愛され、見守られてきたことがわかる。
微笑みかける滋さんの遺影を見ながら、あらためて、微力だが、拉致問題の進展に少しでも貢献したいと思った。
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《ロシア軍「ウクライナ東部に注力」 苦戦で目標修正か》(日経)との観測があるが、無差別の砲爆撃は続く。
マリウポリは建物の9割が破壊され、兵糧攻めで、町に残った住民が餓死の危険にさらされているという。国連のグテーレス事務総長は「ウクライナの人々は生き地獄を耐えている」(22日)と危機感をあらわにしている。
そのマリウポリから最後に脱出したAP通信の記者が、町を退避するにあたって「マリウポリの20日」という記事を配信している。
以下、記事の一部を紹介したい。
戦争開始直後、まだ避難が可能だった早いうちにマリウポリを離れたのは、43万人の住民のうち約4分の1だった。しかし、ほとんどの人は戦争が起きることを信じられず、それが誤りだと知った時にはすでに遅かった。
ロシア軍は砲爆撃で電気、水道、食料供給を次々に切断し、ついには携帯電話、ラジオ、テレビ塔まで破壊した。町に残っていた数少ないジャーナリストたちは、最後の通信が失われ、町が完全に封鎖される前に脱出した。
封鎖の中での情報の欠如により、二つの目的が達成される。
一つ目がカオス(混乱)だ。人々は何が起きているのか分からず、パニックになる。はじめ私はマリウポリがなぜそれほど早く崩壊したのか理解できなかった。今では、それがコミュニケーションの不足のせいだったことが分かる、
二つ目は「お咎めなし」という目的だ。町から発せられる情報がなくなり、破壊された建物や死んでいく子どもたちの映像もなくなると、ロシア軍はやりたい放題になってしまう。我々がいなければ、何もなかったことにされるだろう。
だからこそ、我々は、大きなリスクを冒してでも見たことを世界に伝えたし、ロシア軍が激怒して我々を狙ってきたのだった。
私は、沈黙を破ることの重要性を、これほど感じたことはない。
(筆者訳)
戦場にジャーナリストがいなければならないことを端的に語っている。